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野中兼山と谷秦山に使えた2人の奉公人

野中兼山と谷秦山に使えた2人の奉公人
              池きさ&寺村兼

谷秦山・池内氏(香宗我部家老)・野中兼山(婉)の関係
<「2人の奉公人について」勝頼曾孫「兼姫」と母?>
・宿毛に幽閉された野中兼山と婉を最後まで補佐奉公した池きさ(正晴の息子勝正の嫁だった、出身は池左近進頼勝の娘)、勝頼の3男正晴が養子に行った処が宿毛平田の寺山松村右京秀春、池きさと出会ったのでしょうか。

 39番札所の延光寺場所は宿毛平田寺山、奇しくも同じ場所ですが延光寺に養子に入ったのでしょうか、此の正晴の孫が谷氏に奉公に行った「兼」です。
延光寺にある「笑い不動掛け軸」門外不出が四国へんろ展・県立美術館で展示されるとか、勝頼の墓所鳴玉神社の上手に笑い不動の不動明王の祠が有ります。地元では年2回祭りが行われており、言い伝えでは明治の時代火事で一部焼けていた掛け軸を行商人に修理に出してから戻らないと「笑い不動掛け軸」果たして真相は。

四国霊場記(昔のガイドブック)から39番礼状:赤木山寺山院延光寺の挿絵から見てみる!
*寺山の入口山門の手前(右手)に「寺主の屋敷」以外民家は見当たらない。

tera0013.jpg

赤亀山寺山院延光寺 → 挿絵は赤木山寺山院延光寺 「せっきざん」と読むのか。
いつから、赤木山から赤亀山に字が変わったのでしょうか
tera0012.jpg


・笑い不動の箱に天正18年(1590)の書き込みがあると新聞から、正晴の子(勝正)が2年後の文禄元年(1592)に生まれています。正晴が養子に行ったのは年天正18年(1590)ごろで何か関係ありそうですが真相は。
*谷秦山(1663~1718)が56才で死去。晩年罪名不明、無実の罪で蟄居。その間塾を開いた。「神代巻塩土伝」の研究物を著す。1700年頃から私塾。

*谷秦山の親の墓と並んで池内氏の墓あり。野中婉がお世話になったと、池内の伯母のお墓をさいさいお参りするという興雲寺(の西)は中ノ村に池内の邸があった近くらしい。
*野中家に奉公人を紹介したのは池内家と公文家、池内は香宗我部家家老職、公文は野中家に使えていた関係。また池内家は谷氏と同じ場所に墓があり親類関係だったと思われます。つまり池内家を中心に野中兼山家と谷秦山家が繫がっていた事になります。

*池内氏と野中兼山(1615~1663)の娘お婉様の関係
皆山集(*宝暦13年(1763)未正月 池内真友記言い伝えを書く。)
野中伝右衛門殿のご息女於エン様(1661~1726)は、安履亭と号す。朝倉にお住まいす。
お上より御扶持を下し給い、博学大智のお方なり。池内一家へ故あるよしにて度々御入りになられる訳を左に記す。
一、曾祖父の池内伝内の妻は公文善左衛門の妹。此の公文氏は、昔徳善村(西祖谷山村善徳?)300石あまりを領すとあり、御入国以後浪人となり、徳善村に住む。野中の御家へ出入りをする。(土木技術を持った使用人では)
「ある時、(公文)伝左衛門殿おおせられ候は、慥(たし)かなる婦人の奉公人を肝いり候様仰せられる。善左衛門が申しあぐるはわたしの妹があり。池内伝兵衛・池内小左衛門の伯母です。 是を差しあぐると申すべきかなと申し候えば、その方の妹の儀は、たしかなる事およぶべきか所望とおおせられ、直ちに奉公に入る。
二、お気にも入り久々勤めおり申すうち、彼のご一家(野中家)重きお咎(とがめ)にて、数々のご子息達、宿毛へやられ、伯母といたわり付き添い、彼の地へ参る。
その後お配所の伯母を・・・・公文家へ参る人もこれ無きゆえかな。池内小左衛門真森が宿毛へまかりこし・・・・廟所は興雲寺西にある。安履亭(婉・エン)は伯母を親とも思われめされ、ご深い志ゆえ、お入りの度ごとに廟へまいりなされ、父市右衛門の時代にお入りの節、狩野朴筆を養い、竹に日の図、掛け物と錦での徳利を下されるなり。今の家にある。・・・・右之通訳ゆえ、一家出入りをいたし、お懇ろにおおされ候よし、父市郎右衛門これを噺つくし書き記す。

*野中婉は元禄16年(1703年)宿毛から高知へ帰る。
享保10年(1725年)12月30日没、66才  柳蔭亭と呼んだ。
母池きさ 母公文かち 母やな 母美濃部つま」

*勝頼→政晴→勝正→兼について(武田家系図から)
慶長十五年庚戌(1610~)出生・父病死の砌漸く十三才也之に依り母親は池左近進に預け後信房の妻の兄枝川村住人寺村彦左衛門清次方に養育を頼みし所外姓の方に掛り人として居り難く思いしや家名を隠し枝川村百姓源右衛門と申す者権親として彼の娘と称し寛永元年甲子(1624)潮江の谷氏に奉公し同二年には中山氏へ奉公し終に中山興市兵衛直秀の准妻となり男女四人産育す慶安二年二十八才にて暇を乞い清次の妻となって居りしが慶安四年又中山へ行き終に後亦枝川へ帰り彦太郎清秀の妻となる。

(この兼姫は、13才父死亡→枝川村寺村彦左衛門清次養育→15才谷氏→16才佐川中山氏奉公→中山直秀准妻男女4人産→28才枝川村寺村清次の妻→30才佐川中山に行く→最後は枝川村寺村彦太郎清秀の妻となる、美人だったのか波瀾万丈の道を歩む。)
 <質問:枝川村は現在の何処か何方か教えて下さい。>
 <佐川中山氏は勝頼の曾孫晴郷(山崎彦六後九朗右衛門)が頼って行った川内ヶ谷奥土居です。>

*谷氏に奉公した「兼」は勝頼の曾孫に当たります。父は池左近進の女から妻を娶り生まれた女子が兼です。母は池氏の女ですので(階山集記録から)野中家に奉公した奉公人は「池きさ」ではないか、親子で野中家と谷氏に奉公に行ったことになります。
公文家は野中邸に出入りする使用人だった(甲斐の土木技師ではなかったか)全てが香宗我部家で繫がっている。
土佐藩で著名な両家に武田の影が垣間見えます。
追求された事案ではと思います。

「見られん 聞かれん 言われん」が一族に流布したとか!

「山梨県笛吹川の河川整備(木製井型堰)は武田の技術者、一方、野中兼山の宿毛・伊野・山田堰(木製井型堰)は同じ工法で武田・香曾我部家と深い関係に有ったと思われます。

39番札所:中村安並石見寺から宿毛延光寺に変更
・勝頼同行の僧が石見寺の住職となる(土佐武田系図から)18世栄智が1596年~この人物か、また25世栄如の時代1702年醍醐法印末寺御加「遊法流相続」、遍路札所を譲ったことか。土佐藩では五代藩主豊房の時代藩主は「谷秦山」を登用している、翌1703年「野中婉」の幽閉が解かれて高知に帰っている。
六代藩主豊隆(1706養子)の時「谷秦山」が投獄されている。(藩主の交代で処遇が影響している・・?)
<資料から:豊隆は武蔵の鳥居氏に養子、兄豊房死後に養子としてはいるが、先代からの重臣たちを次々と粛清したことから評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている。とか!>

谷泰山は洋学を広め山内家・野中兼山・後の坂本竜馬・中岡信太郎など維新に大きな役割を果たした人物です(土佐山田に野中兼山・えん・谷泰山の墓が有ります)」

考察
・兼の母は池左近の娘、父が死亡の際池へ帰る(野中家の母「池きさ」ではないか)
・谷氏に奉公した兼は母が池氏から来ていた、母が野中家へ娘が谷氏に奉公か!
・長篠の戦い後香宗我部を頼り、武田の家臣内川や馬場氏が土佐に入っている事実。
・武田家の奉公人等の人材登用が、野中、谷両家がえん罪の主な理由だったのでは。
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