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2014 秋の陣 玄蕃 勝頼公祭り

2014 秋の陣 玄蕃 勝頼公祭り 完結!

心配された台風・雨はまたもや我々のイベントを避けてくれた。


擐甲の礼:第2回目(第1回目は2012年実施された)
武田家の継承式、此処では勝頼公から信勝公(甲斐武田21代目)に家督を譲る儀式を指し、土佐では天正13年2月8日(1585)にタイムスリップして、2012年「第1回全国武田の里サミットIN土佐」で大崎八幡宮神前にて執行されました。以後はこの継承式を模して行う儀式のイベント行事です。


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*御館様  武田勝頼公役(岩本龍樹)仁淀川町大崎 池川中2年生 
*奉行役  片岡光綱公役(片岡豊涌)高岡郡越知町片岡氏末裔
*継承者  武田信勝役 (岩本侑志)仁淀川町大崎 池川小6年生
*援軍参陣及び祝砲 丸亀城鉄砲隊 香川県高松市
(讃州久米流古式砲術研究会)隊長 山本陸雄氏


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@武田家第21第当主武田信勝公の継承式「擐甲の礼」を執り行います。
 時は今、天正13年(1585年)2月8日にタイムスリップし、大崎の陣大崎八幡宮の境内において烏帽子親「長宗我部元親公」をお迎えし、奉行立会人として片岡光綱公の同席を願い、武田家第21代当主となられる、武田信勝公の継承式「擐甲の礼」を執り行います。
・烏帽子親である長宗我部元親公より「擐甲の礼」を執り行う旨の宣告がありました。

「これより武田家第21代当主武田信勝公の継承式「擐甲の礼」を執り行う」

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烏帽子親:長宗我部元親役の(福家徹也)氏とツーショットaaaa26.jpg


aaaa22.jpg軍師:西森氏 前県歴民館長:詫間氏aaaa23.jpg大石仁淀川町長と岡田議長

場所は大崎八幡宮
:天正14年6月15日建立が系図から確認、御正体は新羅三郎義光公・同御内室・2代目相模守義業公・治高兵衛義定公・武田形部三郎義清公・義清御内室・四郎兵衛義仲公・3代目逸見黒源太清光公・武田形部三郎師光公・同御内室・4代目武田太郎信義公・加義治郎成光公等12尊と、勝頼公・美津岐婦人・その他祭神です。


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孫たち娘と妻達も巫女として参加しています。

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丸亀城鉄砲隊「擐甲の礼」の礼砲
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おなばれ
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武者行列
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鳴玉神社
武田勝頼公と美津岐婦人の眠る墓所として地元では伝わっている、又土佐に残された武田家系図から慶長14年8月25日64歳で逝去「柿ノ木の本に、また土居屋敷」に葬られると出てきます。勝頼は大崎玄蕃と変名し、以後後継者は山崎尾崎小崎大崎等名前を変えて現在に到っている。
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神官は大崎八幡宮25代神主「長生教教会長岡林氏」
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鳴玉神社横では、丸亀城鉄砲隊の礼砲が響く!
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「おなばれ」は街中を巡行して大崎八幡宮へと帰って行く。
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今年は獅子馬(ししんま)が数年ぶりに出された。(人材不足)
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玄蕃祭り(手踊り)の象徴である、シンボルの「花台」のお祓い
飾られた花は無病息災と村人達は奪い競って持ち帰る。

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「ししんま」は噛まれたら病気に成らないと言われている。
しかし子供は怖がる! 昔もそうだったなー!

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キャラクター「かつよりくん」着ぐるみ
出生:平成21年10月10日武田勝頼没後400年祭秋の陣
出身:武田の里大崎の陣大崎八幡宮武田勝頼公のことです。
着ぐるみ:2012年秋の陣「第1回全国武田の里サミットIN土佐」でデビュー。

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           戦国広場
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           戦国会議
開会の言葉 武田勝頼土佐の会 会長
戦国の集落、4年前の400年祭の会場で発表したテーマタウン構想、戦国の集落をイメージした町づくりを宣言しました。以来、高知県の観光ガイドブックにも掲載され龍馬パスポートや、県外からのガイド訪問者が来町するようになりました。武田の里大崎の陣には誇れる観光資源が有ります(武田勝頼公の墓所、2つ目が武田信勝公の墓所、3つ目が大崎八幡宮に鎮座する武田家始祖12尊の正体)です。全国の武田の里としての観光資源として誕生してから3年あまり、広域観光拠点の街づくりが開花しようとしています。今後、広域観光の連携を確実なものにして行くには、武田の里として特色のある町づくりイベントを定着する必要があります。其れには官民を挙げての取り組が必要だと感じています。
大崎のこの場所が仁淀川町の中心地に成ろうとしています。明るい未来に期待しまして開会の挨拶と致します。

仁淀川町長 大石弘秋氏の挨拶

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仁淀川町議会議長 岡田良成氏の挨拶

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丸亀鉄砲隊 最後の火縄銃演武です。迫力満点!!
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フィナーレは玄蕃踊りで幕を閉じた・・今年もありがとう!
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御朱印 鳴玉神社・大崎八幡宮参拝祈念に!
武田の里 大崎の陣“まいさるく”ガイド案内所で販売しています。
   各種一枚300円  2枚セット500円


   img0662.jpg  鳴玉神社         img0682.jpg  大崎八幡宮

a126.jpg 最後の武田 土佐に生きた勝頼公 ネットで販売中
来年(2015年)「秋の陣 玄蕃 勝頼公祭り」は10月10日(旧暦8月28日)土曜日を予定しています。多くの武者達の参加をお待ちしています。

お問合せ:武田勝頼土佐の会 電話FAX:0889-20-2003マデ






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玄蕃祭り&秋の陣

秋の陣 玄蕃祭り 勝頼公祭り 準備に忙しい日々

イベント会場のマップです「大崎の陣」
今年は「2回目の睘甲の礼」一昨年から規模縮小です!

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一つだけある本物の甲冑です。
勝頼役か信勝役に使いたいと思っています。少し小さいです!
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夏の暑い時期に花造りが始まります。
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切り抜いた花びら「打ち抜きの金具は昭和30年頃の骨董品です」
制作者は60年ほど前ブラジルに移民した故岡林亀次郎氏です。
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竹ひごは孟宗だけの切り出しから、輪切り、割り、等作業は大変です。
目標は400本
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インクで染めた(コツがあります)花びら2枚にコヨリを差し込む作業
(神経衰弱)役1800本
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花びらを5個ずつ竹ひごに紙テープで巻き付けて仕上げます。
(人海戦術、一晩で仕上げました)
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ほぼ完了前の追い込み午後9時少し前です。(基幹集落センターにて)
最終的に365本できあがりました。(コヨリが足りなかった)
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14日午後3時大崎八幡宮に集合、倉庫から材料を選別して積み込む!
運搬→基幹集落センターまで運ぶ。
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組立材料が合わない、1時間半ほどああでもない・こうでもない
ワイワイ議論してようやく組立に掛かった
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夕方6時ごろようやく組立が終了「ご苦労さん」aaaa12.jpg

本日15日甲冑の試着を行いました。
第二回擐甲の礼:武田勝頼公(中学2年生)・武田信勝公(小学校6年生)
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野中兼山と谷秦山に使えた2人の奉公人

野中兼山と谷秦山に使えた2人の奉公人
              池きさ&寺村兼

谷秦山・池内氏(香宗我部家老)・野中兼山(婉)の関係
<「2人の奉公人について」勝頼曾孫「兼姫」と母?>
・宿毛に幽閉された野中兼山と婉を最後まで補佐奉公した池きさ(正晴の息子勝正の嫁だった、出身は池左近進頼勝の娘)、勝頼の3男正晴が養子に行った処が宿毛平田の寺山松村右京秀春、池きさと出会ったのでしょうか。

 39番札所の延光寺場所は宿毛平田寺山、奇しくも同じ場所ですが延光寺に養子に入ったのでしょうか、此の正晴の孫が谷氏に奉公に行った「兼」です。
延光寺にある「笑い不動掛け軸」門外不出が四国へんろ展・県立美術館で展示されるとか、勝頼の墓所鳴玉神社の上手に笑い不動の不動明王の祠が有ります。地元では年2回祭りが行われており、言い伝えでは明治の時代火事で一部焼けていた掛け軸を行商人に修理に出してから戻らないと「笑い不動掛け軸」果たして真相は。

四国霊場記(昔のガイドブック)から39番礼状:赤木山寺山院延光寺の挿絵から見てみる!
*寺山の入口山門の手前(右手)に「寺主の屋敷」以外民家は見当たらない。

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赤亀山寺山院延光寺 → 挿絵は赤木山寺山院延光寺 「せっきざん」と読むのか。
いつから、赤木山から赤亀山に字が変わったのでしょうか
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・笑い不動の箱に天正18年(1590)の書き込みがあると新聞から、正晴の子(勝正)が2年後の文禄元年(1592)に生まれています。正晴が養子に行ったのは年天正18年(1590)ごろで何か関係ありそうですが真相は。
*谷秦山(1663~1718)が56才で死去。晩年罪名不明、無実の罪で蟄居。その間塾を開いた。「神代巻塩土伝」の研究物を著す。1700年頃から私塾。

*谷秦山の親の墓と並んで池内氏の墓あり。野中婉がお世話になったと、池内の伯母のお墓をさいさいお参りするという興雲寺(の西)は中ノ村に池内の邸があった近くらしい。
*野中家に奉公人を紹介したのは池内家と公文家、池内は香宗我部家家老職、公文は野中家に使えていた関係。また池内家は谷氏と同じ場所に墓があり親類関係だったと思われます。つまり池内家を中心に野中兼山家と谷秦山家が繫がっていた事になります。

*池内氏と野中兼山(1615~1663)の娘お婉様の関係
皆山集(*宝暦13年(1763)未正月 池内真友記言い伝えを書く。)
野中伝右衛門殿のご息女於エン様(1661~1726)は、安履亭と号す。朝倉にお住まいす。
お上より御扶持を下し給い、博学大智のお方なり。池内一家へ故あるよしにて度々御入りになられる訳を左に記す。
一、曾祖父の池内伝内の妻は公文善左衛門の妹。此の公文氏は、昔徳善村(西祖谷山村善徳?)300石あまりを領すとあり、御入国以後浪人となり、徳善村に住む。野中の御家へ出入りをする。(土木技術を持った使用人では)
「ある時、(公文)伝左衛門殿おおせられ候は、慥(たし)かなる婦人の奉公人を肝いり候様仰せられる。善左衛門が申しあぐるはわたしの妹があり。池内伝兵衛・池内小左衛門の伯母です。 是を差しあぐると申すべきかなと申し候えば、その方の妹の儀は、たしかなる事およぶべきか所望とおおせられ、直ちに奉公に入る。
二、お気にも入り久々勤めおり申すうち、彼のご一家(野中家)重きお咎(とがめ)にて、数々のご子息達、宿毛へやられ、伯母といたわり付き添い、彼の地へ参る。
その後お配所の伯母を・・・・公文家へ参る人もこれ無きゆえかな。池内小左衛門真森が宿毛へまかりこし・・・・廟所は興雲寺西にある。安履亭(婉・エン)は伯母を親とも思われめされ、ご深い志ゆえ、お入りの度ごとに廟へまいりなされ、父市右衛門の時代にお入りの節、狩野朴筆を養い、竹に日の図、掛け物と錦での徳利を下されるなり。今の家にある。・・・・右之通訳ゆえ、一家出入りをいたし、お懇ろにおおされ候よし、父市郎右衛門これを噺つくし書き記す。

*野中婉は元禄16年(1703年)宿毛から高知へ帰る。
享保10年(1725年)12月30日没、66才  柳蔭亭と呼んだ。
母池きさ 母公文かち 母やな 母美濃部つま」

*勝頼→政晴→勝正→兼について(武田家系図から)
慶長十五年庚戌(1610~)出生・父病死の砌漸く十三才也之に依り母親は池左近進に預け後信房の妻の兄枝川村住人寺村彦左衛門清次方に養育を頼みし所外姓の方に掛り人として居り難く思いしや家名を隠し枝川村百姓源右衛門と申す者権親として彼の娘と称し寛永元年甲子(1624)潮江の谷氏に奉公し同二年には中山氏へ奉公し終に中山興市兵衛直秀の准妻となり男女四人産育す慶安二年二十八才にて暇を乞い清次の妻となって居りしが慶安四年又中山へ行き終に後亦枝川へ帰り彦太郎清秀の妻となる。

(この兼姫は、13才父死亡→枝川村寺村彦左衛門清次養育→15才谷氏→16才佐川中山氏奉公→中山直秀准妻男女4人産→28才枝川村寺村清次の妻→30才佐川中山に行く→最後は枝川村寺村彦太郎清秀の妻となる、美人だったのか波瀾万丈の道を歩む。)
 <質問:枝川村は現在の何処か何方か教えて下さい。>
 <佐川中山氏は勝頼の曾孫晴郷(山崎彦六後九朗右衛門)が頼って行った川内ヶ谷奥土居です。>

*谷氏に奉公した「兼」は勝頼の曾孫に当たります。父は池左近進の女から妻を娶り生まれた女子が兼です。母は池氏の女ですので(階山集記録から)野中家に奉公した奉公人は「池きさ」ではないか、親子で野中家と谷氏に奉公に行ったことになります。
公文家は野中邸に出入りする使用人だった(甲斐の土木技師ではなかったか)全てが香宗我部家で繫がっている。
土佐藩で著名な両家に武田の影が垣間見えます。
追求された事案ではと思います。

「見られん 聞かれん 言われん」が一族に流布したとか!

「山梨県笛吹川の河川整備(木製井型堰)は武田の技術者、一方、野中兼山の宿毛・伊野・山田堰(木製井型堰)は同じ工法で武田・香曾我部家と深い関係に有ったと思われます。

39番札所:中村安並石見寺から宿毛延光寺に変更
・勝頼同行の僧が石見寺の住職となる(土佐武田系図から)18世栄智が1596年~この人物か、また25世栄如の時代1702年醍醐法印末寺御加「遊法流相続」、遍路札所を譲ったことか。土佐藩では五代藩主豊房の時代藩主は「谷秦山」を登用している、翌1703年「野中婉」の幽閉が解かれて高知に帰っている。
六代藩主豊隆(1706養子)の時「谷秦山」が投獄されている。(藩主の交代で処遇が影響している・・?)
<資料から:豊隆は武蔵の鳥居氏に養子、兄豊房死後に養子としてはいるが、先代からの重臣たちを次々と粛清したことから評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている。とか!>

谷泰山は洋学を広め山内家・野中兼山・後の坂本竜馬・中岡信太郎など維新に大きな役割を果たした人物です(土佐山田に野中兼山・えん・谷泰山の墓が有ります)」

考察
・兼の母は池左近の娘、父が死亡の際池へ帰る(野中家の母「池きさ」ではないか)
・谷氏に奉公した兼は母が池氏から来ていた、母が野中家へ娘が谷氏に奉公か!
・長篠の戦い後香宗我部を頼り、武田の家臣内川や馬場氏が土佐に入っている事実。
・武田家の奉公人等の人材登用が、野中、谷両家がえん罪の主な理由だったのでは。
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武田善兵衛

Author:武田善兵衛
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