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武田雅楽(ガラク)=武田左馬助貞秀では?

武田雅楽(ガラク)=武田左馬助貞秀では?

岩倉信仰の象徴=安居但馬守(玄蕃の友達)の呼び石伝説
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ガラクの祀りとは(安居土居の山の上に鎮座)
熊野神社・北斗妙見神社・三大妙見社などを祀る!


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安居土居全景
山頂やや左のくぼみに神社、中央付近の住宅がガラクの屋敷

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・大日神社=下記から熊野神社信仰を指しているのでは。
・大は、勝頼の陣馬の印であり。
・日はこの世の中心である太陽信仰(八幡神社)

・七山神社=北斗妙見神社・三大妙見社(北斗七星)では。


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岡林氏」から=遠祖である初代神主は山城国の北斗妙見神社、熊野神社、三社十二社大権現の神主とされ建武の時代、京の戦乱から逃れ、尊き皇族の身ながらご神体を捧持し奉り、吉野川を遡行して、本川村葛原に落着、ここに三大妙見社を建立、その後吾北村寺野、樅ノ木山へ分霊を勧請、社殿建立し、熊野権現の御神託があり、安居郷宮ヶ平の山中に百二社権現を祀った、この熊野神社神主が高吾北の神主として岡林姓の祖となる。)

また、太陽信仰から「大日如来」曼荼羅の中心に位置している、空海信仰かも知れません。
・七山神社=北斗妙見神社を指しているかも。いずれも上記岡林氏の記述から。

*勝頼の一行に神官がいた話しから、岡林家の娘と一緒になり大崎八幡宮の初代神主になった信州の神官、ガラクはガラク山の神官(諏訪大社の生き神様的存在)なのかも!
ガラクの「なかやしき」には、岡林さんがいました


安居荒久山大正5年=ガラク山と読むのでしょう。
神札は大正5年~6年に掛けて書かれています。

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三月八日武田雅楽(ガラク)の安居土居なかやしきを探訪
NHK松山支局の追跡取材「四国謎解き行脚」の収録
調査同行は、武田勝頼土佐の会役員の皆さんと案内人安本氏です。


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なかやしき:中屋敷=雅楽扣、の扣は(天正18年)この時代本人は不在だと言うことで、20才位でしょうか、本人は佐川の黒岩片岡城古城跡に横畠左馬助で地検帳に出てきます。
調査は屋敷を確認するも当家の方からは情報が得られず、東下の庄屋屋敷と隣の「福正寺庵」を調査。

<庄屋屋敷山崎氏>

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庄屋屋敷の裏手の墓
興味深い墓を発見!、{ 道番庄屋 池川新七 }
・池川町史から:山内氏の庄屋初代山崎弥九郎宝暦4年(1754)~。
・それ以前には池川文太宝暦4年お役御免、
・その前が池川新七元禄6年(1693)~今回墓を発見!
・その前が安居平蔵延宝3年(1675)~
*この間が怪しいですね。天正10年(1582)ごろ池川善四郎某が居たのでは?
・地検帳(1590)の安居土居の筑前守(名本)がどうも池川善四郎ではないか!


少し時代が遅いですね土佐の山間には山内氏の影響力が及んでいなかったのでは。

以前から探していた池川氏、勝頼の嫡男信勝は池川善四郎森信の3女を妻にしているからです。
ガラクとゆす姫・・・信勝と池川氏の娘:二つの婚姻・隣り合わせに居たことになります


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墓石 { 道番庄屋 池川新七信士 }
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福正寺庵(地検帳)・・木札には福昌寺と書かれていたが(ふくしょうじ)と読むのでしょう。
天正18年(1590)の地検帳の寺が再建されてはいるが確認された。
観音堂
寛政七年卯(1795)・・・
寛政十一年戌未 当主 山崎喜源太(庄屋二代目)
明治十八年・・・・

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鰐口(わにぐち)
左:文政元年(1818)七月吉日
右:寄進安居土居村惣中

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池川口関所跡:屋敷(イツチキヤシキ 雅楽 控)・関所跡ノ碑
地検帳・この時代(1590)既に佐川黒岩「古城跡に横畠左馬助の屋敷が出てくる」勝頼の娘は横畠左馬助に嫁ぐと武田家系図に出てきます。


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佐川町沖の古城・雅楽頭(うたのかみ)の祠
右の写真電柱の左が沖の古城屋敷、屋敷の右に屋根が見えますが(雅楽頭祠)現在は取り壊して何も残っていない。
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佐川の雅楽(武田信豊の次男)の所在が解った!

佐川町教育委員会で資料を見つける。
地検帳に出てくる雅楽、日本家系家紋研究所岡林一族に出てくる雅楽

がらく


   (中村越前守信義の祠・佐川高北病院の改築移転される)
1,地検帳に出てくる雅楽(がらく)は以前に報告、後の横畠左馬助(貞秀)

2,家系研究所の資料では、遠祖は「秦の始皇帝」父は三野代官信近*嫡子・中村越前守信義・佐川松尾城城主。
弟が岡林信靖(始め雅楽頭信吉・岡林を号して子孫に伝う)と。

3,佐川教育委員会資料から、中村越前守信義は弘治2年(1556)松尾城主となる。佐川を治める。
・元亀元年(1570)長宗我部元親に墜ちる、久武内蔵助(佐川領す)に娘を娶し川内ヶ谷藤本土居に陰棲。
・久武内蔵助は天正7年(1579)南伊予との戦いで戦死、再び中村越前守信義が佐川を治る。
・慶長元年(1596)旧主、中山氏に藤本土居で討たれる。祠が町史に掲載
・彼の弟で三野を管轄していた雅楽頭信吉については余り知られていない。 
・祠が三野沖の古城の東隣にある(有った)



考察

1、兄が中村性を名乗って、弟(雅楽)が岡林を名乗るのは不自然ではないか、特に中村氏を殺した中山氏を勝頼の曾孫達(晴郷)が頼って佐川中山の土居に出ている事から考えると兄弟とは考えられない。
天正7年(1579)中村氏を討ち取った中山氏が天正10年以後に雅楽を庇護して中村氏の所領(三野)を継がしたのではないか。
つまり、町史等に書かれている弟説を除けば、歴史が繋がるわけです。

2、雅楽は元々岡林を名乗っていたのではないか、大崎八幡宮の神主達に繋がるわけですが。
勝頼の子孫は佐川中山ー三野ー沖の古城と移り現在に至る。
佐川中山土居近くの大乗院寺院では大崎玄蕃(勝頼)が祀られている。
沖の古城の隣の祠は、岡林雅楽頭信吉で、後の横畠左馬助貞秀は天正18年の地検帳では黒岩古城跡の屋敷に出てくる。


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香宗我部氏・土佐武田の里「香宗の陣」

香宗我部氏・土佐武田の里「香宗の陣」

平成25年2月28日調査(史談会の内川氏宅で話しを聞いて土佐山田までいく)

*長篠の戦いの後、馬場美濃守信春は討ち死にしますが。
馬場美濃守信春の子(平兵衛信義)は長篠の戦いのあと香宗我部を頼って天正3年内川氏・馬場氏共に土佐に来たという。(内川氏は今も土居屋敷に居住していているという)
「香宗我部氏の家臣団(天正16年)馬場平兵衛・内川太郎二郎・寺村喜助・大崎新右衛門などがいる」
「長宗我部地検帳(天正16年)香宗に、馬場平兵衛・内川太郎二郎(神右衛門)などがいる」

同じように香宗我部を頼って勝頼より達も土佐に、7年後のことです。


香宗城跡(土佐山田土居)・周囲は農園地帯
後年、地域の関係者で此処に祠を復元したそうです。
<北から撮影>
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<南から撮影>DSC00506.jpg

<香宗城の説明版>DSC00503.jpg


<石碑の裏面・昭和37年に建立>
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*馬場美濃守信春の子孫
 自由民権活動で有名な「馬場辰猪」が土佐藩に差し出した年譜(先祖書)に「先祖平兵衛の父は美濃守也」とはっきり書いている。内川家は元信州の内川部落におりまして天正3年の長篠の戦いに武田が破れたあと、土佐へ逃れて香宗我部氏を頼ったようで、馬場家も同じようです。香宗我部氏の出身地である信州の中原と内川部落は直ぐ近くで、長宗我部氏(秦氏)の出身地稲荷山もすぐその隣です。その当時香宗我部氏は衰えて、長宗我部元親の弟親泰が香宗我部の養子になり、四国平定に乗り出していたから、香宗へ来るのはよいタイミングで有ったと考えられます。(内川氏書面から)


<香宗川を上流に向かって見る>DSC00512.jpg

<三宝山が遠くに見える、中央が香宗城跡>
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<香美神社跡・香宗我部秀通公碑と墓所>

1193年、一条忠頼(父は武田信義で頼朝と平家打倒に貢献する)家臣の中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭職(頼朝から賜った)となり、主君・忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。秋通が香宗我部氏を称して初代となった。なお養父の秋家は土佐山田城に移り山田氏の祖となっている.

親秀は東隣の安芸郡に拠る安芸氏と抗争しながら土佐で勢力を広げるが、大永6年(1526年)に安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失った。また西の長岡郡で長宗我部国親が勢力を拡大し、香宗我部氏は東西から圧迫されるようになった。このため親秀は国親の三男・親泰を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入った。ただし親秀の実弟で養子だった秀通がこれに反対したため、親秀によって殺害されている。 一方、香宗我部領の北側・香美郡中北部を勢力下としていた山田氏は長宗我部国親に滅ぼされた。

親泰は、国親の跡を継いだ元親の下で長宗我部一門として土佐・四国の統一戦に参加し活躍した。文禄の役の最中に親泰は長門国で死去し、次男の貞親(親和)が継いだ。
しかし関ヶ原の戦いにおいて長宗我部氏が改易されたため、貞親は土佐を去って下総国佐倉の堀田氏に仕えた。この一族は一族の記録を現代にまで伝えている。

一方、長宗我部系ではない香宗我部の血筋は残っており、養子問題で殺害された秀通の子・泰吉が中山田氏を称して親泰・貞親に仕えている。なお中山田氏は香宗我部氏の移動に同行せず、土佐に残った
(平成24/10/13秋の陣・大崎の陣に参加頂いた香宗我部氏の末裔の方は、中山田の末裔です。)a>

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<香宗我部秀通公の法塔墓>DSC00500.jpg

<香宗我部秀通公を追慕して墓を建てた武田氏の看板>
DSC00495.jpg

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