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小説 最後の武田(武田勝頼回想記) 

小説 最後の武田(武田勝頼回想記) 
                               著者「片岡昌一」氏

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                  勝頼像 <高野山持明院所蔵>

 著者の片岡昌一氏は私の友人で、中学校の同級生でした。
また「武田勝頼土佐の会」会員でもあり、今回小説を書き始めたとの事です。
昨年は「最後の平家」の発刊をしまして、全国の書店、及びアマゾンでも販売されています。

 今回は、片岡氏の了解のもとにその一部を公開しますので、読者からのご感想を頂きたいです。
好評であれば、一部ではありますが順次掲載を致します。
著者の片岡昌一氏の勝頼逃亡説の推理を楽しんで下さい。


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小説 最後の武田(武田勝頼回想記)

■逃避行

 満天の星が、まるでプラネタリウムの様に、夏の夜空を埋め尽くし輝いていた。
川合土居屋敷の庭に敷いた、茣蓙筵の上に寝そべりながら勝頼は思った。
すぐ手の届きそうな頭上に三つの並んだ星が、勝頼を見下ろしていた。

 一番上で、一際大きく輝いているのは父信玄であろうか、その下で控えめに光っているのが母諏訪姫か、そして一番下で瞬きを繰り返しているのは、無念の若き命を散らした、弟五郎盛信ではないか。
今では勝頼は、大崎玄蕃頭と呼ばれ、この山里を治める庄屋となっていた。
土佐に来て二十有余年が過ぎ、勝頼も還暦を迎える年となっていた。

 思えばこの戦乱の世を、よくここまで生き抜いてきたものだ、
天正十年(1582年)三月十一日織田、徳川連合軍によって甲斐に攻め込まれ、日川渓谷天目山にて、正室の北条夫人、嫡男信勝共々自害したとされているのだったが、

 実は真田昌幸の放った、草の者が身代わりとなり自害し、勝頼、嫡男信勝、側室の三枝夫人、娘のゆす姫、娘婿で従兄弟信豊の子左馬の助「雅楽ガラク」等は、他の草の者の手によって、案内され、天目山の麓、大和村駒飼の陣中から抜け出し、日川渓谷を遡り、大菩薩峠を越えて、武蔵、上野、信濃、三国の国境三国峠を越え、南佐久に入り、真田昌幸の本城岩櫃城目指して北上し、約十日間の逃避行の末に岩櫃城に到達した。

 待ちわびていた昌幸は、早速勝頼に面会した。
「お館、よくぞご無事で参られた、この昌幸心魂を掛けてきっと、お館の身の立つようにいたしますぞ」
「安房、面目もない、かくなる上はお主ばかりが頼りぞ、よろしく頼む」
「大船に乗った積もりで、ごゆるりとなさりませ、織田、徳川といえども、この地までは攻め込んでこられませぬ」

「危ないところであった、出羽の守(小山田信茂)の裏切りにあって、危うく命を落とすところであった、そちを信用しなかった、わしが馬鹿だった」
「ご自戒召されるな、このようになることは予想の上のことで、いつでも身代わりとなれる、草の者共を付けておいたのです」「あの者たちには、申し訳ないことをした、中でも若い女忍を死なせたのは、心が痛んだ」「あの者には、それがしも目を掛けておったので、些か惜しいことではありますが、やむを得ません、

 ところで北条の御寮人は如何いたされました」
「和歌は、小山田が、女、子供は輿にて先に、岩殿城に案内するといって、騙して連れ去った、北条の手土産にいたしたのであろう」
「それはかえって面倒が省けてよかった、先のことについては、この昌幸にいささかなりとも、妙案がありますゆえ、明日からは暫くの間、水上の山湯にでも浸り、お体の回復をなされませ」

「万事そちにお任せいたす、これは当座の費用に受け取ってくれ」
 そう言って勝頼は、布袋に入れた金貨を二袋差し出した。

 一袋には、一千両の金貨が詰まっていた、昌幸は有難く押し頂いたが、その後、この金は名城上田城の建設費用に当てられた。

 勝頼はかつて越後の上杉家の家督騒動で、景勝に加担することを条件に、景勝側から二万両の金貨を得ていた、その半分の一万両は新府城の建設に費やしたが、残りの一万両を持参していた

■木曾義昌の謀反

 天正十年の年も明けた正月元日、木の香も新しい新府城では、頭首の武田勝頼を囲み、重臣達が揃って新年の祝賀の宴が開かれていた、しかしその席に木曾義昌の顔は見られなかった。

 その頃、安土の城でも織田家の新年の宴が催されていたが、木曾義昌は織田信長の下に参集していた。
その席で信長は春には武田総攻めを宣言し、各将にそれぞれ準備を整えるように下知し、木曾義昌には、その先鋒を勤めよと命じた。

 義昌が織田家の新年の宴に参集したことは、武田の間者によってすぐに勝頼の下に知らされた、勝頼は烈火のごとく怒りを爆発させた、義昌は勝頼の妹婿でいわば、義理の弟であり最も信頼で来る親類衆であると思っていた。
そのことは、真田の草の者によって昌幸にもすぐに知らされた。

 その頃真田昌幸は、普請奉行を務めた、新府城の一応の普請を終え、吾妻の真田の本城岩櫃城にて久々の正月を過ごしていた。
 勝頼の近習として奉公させている嫡男の源三郎信幸、二男の源二郎幸村も正月の休みをもらって帰省しており久々に親子揃って新年を迎えているところに、木曾義昌謀反の報が舞い込んだのである。

「父上、武田は一体如何なるのでありますか」信幸は言った、
「うーん、木曾まで裏切ったと有っては、他にも色々手の回っていることであろう、おそらく駿河の穴山梅雪が元凶であろうが、わしは今後の武田家のために、色々手を打ってみるので、お前たちは早々にお館様のそばに付いて、お助けいたせ」
「承知いたしました、では早速これより新府に発ち帰ります」そういって信幸と幸村は馬を飛ばして甲斐に向った。
 
■柴田勝家との密通

 その頃、織田家に於いて越後上杉攻略の役を担っていた柴田勝家は、武田家の北辺の防御役の真田昌幸とは、草の者を通じて互いに、情報の交換を行っていた。

 昌幸は、織田家の筆頭家老である勝家に、草の者を通じて、万が一の場合真田家が立ち行くように、又武田勝頼の助命を願う手紙を書いて送った。

 暫くして勝家からの返事が届いた、内容は大まか次の様なものであった「承知いたした、武田攻めの総大将は、わしの親しい滝川一益が負うであろうから、わしからも良く申しておくゆえ、貴殿からも親書を差し向けておくが良かろう」と言う内容だった。

 昌幸は早速、滝川一益宛の親書を書いて、草の者に託した。
日を置かずして一益からの返事が届いた、
「真田殿の武勇は常々聞き及ぶところで、それがしも、お会いするのを楽しみにいたしておるところです、親書の件は信長様にも宜しく取り計らいましょう」と書かれてあった。

 一連の工作を終えた、昌幸は二月初め、単騎馬を飛ばして新府城に馳せつけた。
新府城では勝頼以下の重臣達が集まって、軍議が開かれていた、内容は謀反を起こした、木曾義昌討伐に付いてだった。

 昌幸を見付けた勝頼は「安房、待ちかねたぞ、木曾が裏切った、そちなら如何いたすか」
昌幸は大声で言い放った「如何も何も、早急に討伐の兵を差し向けられませ、木曾口が破られれば、箕輪城、高遠城もひとたまりもありませんぞ、未だに出兵させていないとは、早手遅れですぞ、今からでは間に合いません、すぐに、高遠城の兵を出兵させ、敵はおそらく鳥居峠に鉄砲隊の陣を敷いて、待ち構えておりましょうから、背後を突かせ、こちらからは、本軍を率いて、鳥居峠の正面に向かい、敵を挟み討ちにいたすべきだと存じます」

 長坂長閑斎がさえぎった、「高遠城を空にしては、敵は木曾口と伊那口に別れて攻めてくるは必定、伊那口からの敵に黙って城をくれてやるようなものですぞ、高遠城が落ちれば、新府城まではわずか二十里足らずですぞ、新府城も危うくなる」
 昌幸は立ち上がって怒鳴った、「だから、愚図愚図しているひまはないと申しているのだ、さっさと木曾口を片付けて、あとは本隊に任せて、高遠の守備に戻ればよいのだ」
「真田殿は元々甲斐の者では無いので、そのような気楽な事が言っておられるのだろう」小山田信茂がいった。

「ここから木曾口に向かっても十日のこと、たかが十日の事だ」武田典厩信豊が言った。
長閑斎と、跡部勝資が、信豊に同調し、勝頼は一万の軍を率いて諏訪に出陣し、上原城に入り、三千の兵を割いて、武田典厩信豊を総大将として、木曾攻めに向わせた。

 昌幸は勝頼に同行して、諏訪の上原城に入った。
武田軍は奈良井に集結し、陣を敷いた。前線の指揮は山県昌満、今福昌弘、横田十郎兵衛等、武田家臣の二世達が当たり、木曾、織田連合軍を攻めて、鳥居峠を攻め上がった。

 峠のあちこちに織田、木曾連合軍の、鉄砲の陣が敷かれており、壮烈な鉄砲の一斉射撃の洗礼を受けたが、各兵が、武田軍得意の弾丸除けの、竹束で防ぎながら、峠の坂道を進んだ。道幅は狭く、連合軍の大軍と言えども、防御の仕様が無く、退却を始めた。

 山県、今福、横田の若大将たちは勢いに乗って、「それ、敵は退くぞ、攻め潰せ」と坂を駆け下って進軍し、麓に陣を張って待ち伏せていた、連合軍五千人の中に深く攻め入り、気がついたときには、周りを囲まれ袋の鼠となっており、山県昌満、今福昌弘、横田十郎兵衛達は死に物狂いで戦ったが、多勢に無勢で如何ともし難く、その日の夕刻には、揃って討ち死にした。

 武田軍、危うしの報を受けた、松本の深志城から、名将馬場美濃守の子息馬場昌房が救援に駆けつけた。
馬場昌房は兵千人を率いて、敵の中に討ち入り敗残兵を逃がし、自らは殿として敵の追撃をかわしながら、鳥居峠を駆け下り、奈良井の信豊の陣まで退却したが、すでに総大将の信豊は、上原城に逃げ帰っており陣はもぬけの殻だった。

 昌房は、兵を率いて整然と深志城に引き返した。
かつて設楽原の戦闘において、敗走となった武田軍の殿として、勝頼以下武田御親類衆を逃れさせた父馬場信春にも劣らぬ見事さであった。

 その頃、信濃の伊那口からは、織田信長の嫡子信忠を総大将とする、五千の兵が侵入を始めた。
下伊那の松尾城は、防衛の要衝であったが、城主の小笠原信嶺は、田中城の依田信廉から、届けられた、文を見て武田を裏切り、織田軍に加担した。

 文には信忠の一書とそれを裏書する、穴山梅雪の署名捺印があり、「武田は間もなく滅びるであろう、今からでも遅くない、織田に加担するか又加担はしなくとも、敵対しないで引篭もっておれば、命と、所領は安堵する、勝頼は殺すが、武田家は存続させ穴山信君を当主とする」と書いてあった。

 この文は穴山の間者を通じて、武田の全武将に回されていた。
穴山信君は勝頼の姉で信玄の娘を正室としており、武田御親類衆の筆頭だった。
信玄の時代から、武田家の外交全般を任され、武田の諸国御使番衆を使い、多くの間者網を諸国に張り巡らせていた。

 下伊那の飯田城には保科正直が居たが、松尾城が裏切ってはこの飯田城もひとたまりも無いと、戦わずして城を明け渡し逃亡した。

 飯田城から程近い大島城には武田趙遥軒信廉がいた。
信廉は信玄の三番目の弟で、武将と言うよりは芸術家肌で、絵画や書を書くことを好み、
信玄によく似ていたことから、信玄死亡のとき、信玄の遺言により三年間死を隠すようにしようとした際、影武者となり、又信玄の生前も折にふれ影武者となっていた。

 松尾城も、飯田城も落ちた今となっては、大島城の兵千人ばかりではいかんともし難く、信廉は、甥仁科盛信の立て篭もる高遠城に退いて合流し、一緒に戦おうと城を捨てて高遠城に向った、高遠城はかつて自分が城主を務めたこともあり、城も隅々まで存じており、堅城であったので、高遠城ならある程度織田軍と戦えると思ったのだった。

 ところが城主の仁科盛信は、叔父といえども、城門を固く閉ざして一兵も入れず、「一戦も交えず城を捨てて逃げてくる様な者は、一兵たりとも必要としない、この城の兵糧は命を賭して戦う者の大切な糧であり、腰抜けどもに食わせるものは米一粒といえども無い」と追い返した。


■高遠城玉砕

 天正十年二月二十八日勝頼率いる本隊は、諏訪上原城から、新府城に引き上げた。

 その頃、伊那の高遠城には、総大将織田信忠の率いる、滝川一益、森長可、毛利秀頼、河尻鎮吉、団景春、水野忠重や、武田を裏切った小笠原信嶺等の、一万近い軍勢が迫っていた。

 かつて高遠城は、十七歳の頃勝頼が初めて城主となった思い出の城であり、その後、叔父の信廉が城主と成り、一年程前から勝頼のすぐ下の腹違いの弟、仁科盛信が、城主を務めていた。
盛信は二十五歳で未だ若かったが、豪放闊達な気風で、あくまでも最後まで城を死守する積もりだった。
勝頼は、その高遠城にすら援軍を送る余裕は無かった。

 高遠城は、信玄が織田家に対峙するために造った城で、川と断崖に囲まれた要害の堅城だった。
高天神城のように、本気で抵抗されたら、相当の損害が出るだろうと思った信忠は、使者として僧法泉を送り込み降伏を促したが、盛信他高遠城に篭っていた将兵は、一兵たりとも最後まで戦う旨の書状を書いて、使者法泉の片耳を切り落とし、追い返した。

 怒った、信忠は、「明朝から総攻撃を行う、一兵たりとも生かすな、皆殺しにしろ」と怒鳴った。
三月一日の夜、死を覚悟した高遠城内は一晩中の大宴会となった、盛信は、「城中の酒は一滴も残さず飲み尽くせ、兵糧は全て食い尽くせ、そして明日は、思い切り戦って死のうぞ」と自らも大杯を次々と干した。

 三月二日夜明けと共に織田軍の猛攻撃が始まった、死を恐れぬ武田軍は、十倍の敵を相手に良く戦い、夕刻頃城兵他千人が全員玉砕した、織田軍の犠牲はその二倍の二千人にのぼった。


■新府落ち

 二月二十八日、諏訪上原城から新府城に引き返した、勝頼の本隊は、わずか千人余りと成っていた、その翌日には、穴山梅雪が徳川家康に降り江尻城を明け渡した。

 武田御親類衆の筆頭である梅雪までが、裏切ったのでは、もうどうしようもないことは皆判っていた。
最後の軍議に出席したのは、勝頼他、長坂長閑斎、跡部勝資、小山田信茂、真田昌幸だけであった。
信豊は、病気だと言って小諸の城に引篭もり勝頼の呼び出しにも応じなかった。
又大島城で戦わずして逃げ出した、信廉は、盛信に高遠城入城を拒否された後、古府中に帰り隠遁した。

 勝頼は言った、「安房、この先どうすれば良いか」昌幸は、「この新府城は、まだ未完成故、この城では、織田、徳川の大軍は防げません、この上は我が岩櫃城にお逃げください、岩櫃城なら、要害の上に、敵の戦線も長くなるので、兵糧の補給もおぼつかず、ところどころの戦線を横から襲って分断させれば、敵もそう容易くは攻められません、それがしに任せていただければ、二年や三年は持ちこたえて見せましょう、そのうち上杉や、常陸の佐竹などと結び、西からは、毛利や長宗我部とも連携すれば、織田軍も引き上げざるを得ないでしょう」

 昌幸の発言を小山田信茂が遮った、「お館様、真田殿は他国者です、甲斐の武田が甲斐を捨てて、他国に逃げたのでは誰も従いません、この上は郡内の我が岩殿城にお引き下さい、大月城の加藤信景殿よりも、お館様が、岩殿城に篭るならば、北条氏も援助いたしても良いと、託を戴いております」「岩殿城に引くが良いと思われます」長閑斎が賛同すると、跡部勝資もうなずいた。

 だが勝頼は言った、「いや、余は岩櫃に行く、安房、そちは先に行って、受け入れの用意をしてくれ」「承知いたしました、それでは早速立ち返って準備万端執り行います、お館様も急いで明日にでもお発下さい、高遠城も最早落ちましょうから、やがて敵の大軍が押し寄せて参ります、それでは御免」昌幸は去っていった。

 真田昌幸の去った後、小山田信茂は、懐から焼け焦げた文の一片を取り出し、勝頼に見せた、「これは、この正月明け真田の屋敷に忍び込ませた、草の者が持ち帰ったものです」
それは、柴田勝家の捺印のある焼け焦げの文書の残骸であった。

 「おのれ、真田までが織田と通じておったか、かくなる上は、そちに頼むしかない、岩殿城に参ろう」「それが良いと思われます」長閑斎と勝資が同時に言った。

 こうして三月三日、勝頼一行は一族郎党七百名を引きつれ、新府城に自ら火をかけ、都留郡の岩殿城に向った。
諏訪の上原城から逃げ帰ったときは千人居た人数も、次々と逃げ出す者が多く、女、子供合わせても、七百人ほどになっていた。

 鳥居峠から逃げ帰った信豊は、小諸の城に引篭もったまま、勝頼の呼び出しにも応じなかった。
真田昌幸は、勝頼他一族は岩櫃に匿い、守りたいと思ったが、何かにつけ上役風を吹かせる長閑斎や、昌幸を他国者と決め付ける、小山田が一緒では、この先岩櫃城に於いても統制が取れないだろうから、排除したいと思い、小山田の忍びが探っているのを察知した上で、柴田勝家からの文の燃え殻を火鉢に残し、持ち去らせたのだった。

 三月三日早暁に韮崎の新府城を発った一行は、正午過ぎに湯村の一条信龍の館に立ち寄り昼食を摂った、信龍は勝頼の祖父、武田信虎の九男で勝頼の叔父であった。

 信龍は、大量のほうとうを作り、一行をもてなした。
信龍は、古府中の警備の役で残っていたが、古府中も此の頃は治安が悪化し、武田の弱り目に乗じて、略奪や、暴行が横行し、名のある者の首を狙って織田方に差出し、恩賞を得ようとする者さえあった。

 ここに長く留まるのは危険であったので、昼食の後はすぐに発ち、郡内目指して東に向った。
これだけの人数が安心して宿泊できる場所は限られていた、一行は湯村の信龍の屋敷から一里ほど東に行った所の善光寺に入った。

 善光寺はかつて信玄が、信濃の川中島で、越後の上杉謙信と戦ったとき、信濃の善光寺が万一戦災にあった時のことを考え、板垣信方に命じ建立し、重要な物はそっくり甲斐の善光寺に移転させたのだった。
善光寺はなだらかな丘陵にあり、見通しも良く、警備が容易で、巨大な本殿と広陵な境内で、多人数の宿泊も可能であった。

 翌朝善光寺を発った勝頼一行は更に東へと向かった、夜のうちに逃亡した者が多く、人数は、昨日の半数に成っていた。
石和に進み笛吹き川を渡り、夕刻に勝沼の大善寺に入った。
大善寺には、勝頼の叔母で、勝沼次郎五郎信友の娘理慶尼が居た、信友は、兄である勝頼の祖父、武田信虎に殺され、領地を奪われた、理慶尼は雨宮氏の元に嫁いでいたが、信虎を恐れた雨宮氏に離縁され、仏門に入ったのだった。

 理慶尼は、勝頼を労わりもてなした、その夜勝頼主従は、大善寺の薬師堂にて一夜を明かした。
ここからも逃げ出した者が多く、翌朝残った者は二百人程に成っていた。

 勝頼は、理慶尼に丁重な礼を言って、一行は武相路を更に東に向った。
笹子峠を越えればもうすぐ郡内である、一行が大和村の初鹿野まで来たとき、前方から二百人ばかりの武装した一団が現れた。

 岩殿城、城代家老からの使いの者で、「岩殿城ではお館様一行を迎える準備が未だ十分に整っておらず、城代家老一存では判断しかねるので殿に先に城に戻って、指図いたしてもらいたい」と申しておりますと告げた。

 小山田信茂は、「そのようなことが、城代に出来ぬとは何事か、役立たずめが」としかりつけたが、勝頼のもとに行き、「お館様、お聞きの通りでございます、真に申し訳ございません、それがし早々に立ち返り、準備を整えてお迎えにあがりますので、この下の庄屋の屋敷にて留まりお待ちください、

 警備のために兵も一緒に留めおきますれば」というと勝頼も小山田の妻子も一緒に残してゆくことでもあるし、何の疑いも無く承知し、一行は駒飼に陣張りし五日ほどすると、岩殿城からの迎えが有り、「準備が整いましたので、女、子供から先にご案内いたします」といって、小山田の家族や、北条御寮人などを、輿に乗せて、留め置いた警備の兵とともに連れ去った。

 勝頼達一行は、その後について笹子峠を登っていったが、そこには小山田信茂の配下の者が柵を儲け勝頼達の進入を拒んでおり、鉄砲を撃ちかけてきた。

 小山田信茂の謀反は明らかと成った。
山のあちらこちらからは、落人狩の山賊の一味が迫っていた。

 山賊の一味を支配しているのは、元武田の家臣だった、辻弥兵衛であった。
辻弥兵衛は、高坂弾正の門下生で武田軍の青年将校の候補だったが、上杉家の家督相続の際勝頼に反対し、国払いされ、それを恨んで徳川方と結び、手柄を立てて徳川方に迎え入れられたいとの思いで、勝頼の首を狙って待ち伏せしていたのだ。

 勝頼は、残った家臣達と相談し、笹子峠から引き返し、日川渓谷沿いに上り、田野の台地に陣を敷いた、残った者は勝頼を含めて、四十人ほどになっていた。

 既に下方半里ほどの所には、織田軍滝川一益隊の先頭が迫っていた。
其の時、真田昌幸の命を受けた草の者数人が現れ、「お館様他ご一行は、この渓谷を遡り、大菩薩峠を越えて、上州岩櫃城にお逃れください、ここは、私どもが身代わりと成りますから、早く甲冑を脱いで、身軽になって渓谷をお上りください」と急かせた、

 「安房め、見抜いておったか」勝頼はつぶやいたが、ここは最早従うしかないと、甲冑を脱いだ、他の者も甲冑を脱いで草の者に渡した。

 勝頼一行は、他の草の者の案内で日川渓谷を遡り南佐久に向った。
その後武田の武者に扮した、真田の草の者は、上から襲ってくる山賊の群れと、下方から、武田の大将勝頼の首を狙って手柄にしようとする、織田軍の雑兵達との壮絶な戦いの末、身代わりとなって自害した、

 その中には、北条御寮人の身代わりと成って死んだ、若い女忍の姿もあった。
勝頼の首を狙って、徳川方に差出し手柄を狙った、辻弥兵衛は、攻め上ってきた織田軍によって、山賊一味共々討伐された。


■出生の事

 勝頼は天文15年(1546年)、諏訪湖の畔岡谷の小坂観音院で生まれた、
父は武田信玄、母は諏訪頼重の娘由布姫であった。

 信玄には正室三条夫人との間に三人の男子が居たので、勝頼は、諏訪四郎勝頼と名付けられた。
嫡男義信は信玄の跡継ぎと目されていたが、父信玄に反目し、後に幽閉され自決に追い込まれた。

 次男は、目が不自由で小さな頃から、仏門に入り龍宝と名乗り、三男信之は、早世した。
勝頼の母由布姫は、諏訪頼重の最初の夫人(小見氏の娘)との間に生まれ、幼いときから輝くばかりの美しさであった。

 その後、頼重には、信玄の妹寧々が正室として嫁ぎ、由布姫の母は正室の座を追われた。

 天文十年(1541年)信玄は、父信虎を駿河に追放して、甲斐の国主に成ると、翌十一年七月諏訪に攻め入り、頼重を討ち滅ぼし捕虜として捕え、甲府東光寺にて自害させた。

 頼重は、腹を切った後その場で立ち上がり、はらわたを引き出して、検分役の板垣信方めがけて投げつけた、介添えの山本勘助が首を刎ねると、その首が空中を舞って信方の腕に噛み付いたという。

 それほどまでにも諏訪頼重の憤懣は、やるかたなかったのであろう。
かくして、信玄は、諏訪の領地共々美しい由布姫も半ば強引に自分のものとしたのであった。

 信玄は、美しい由布姫に夢中に成った、それから四年後、勝頼が生まれたのであった。
信玄が母由布姫を、手篭め同然に自分のものにしたことを知った勝頼は、自分の出生にコンプレックスを抱いていた。


■兄義信の失脚

 義信は信玄の正室三条夫人の長男として生まれ、正真正銘の武田家の嫡男であった。
義信は、才学にも優れ、武将としての勇気や、軍略にも優れていたが、潔癖すぎて狭量であり、清濁合わせ飲むと言う度量に欠けていた。

 そのような事から、父信玄と意見の食い違いが多く、度々信玄に反目していた。
信玄と義信の間に決定的な溝が生じたのは、川中島の戦いであった。
先陣を願い出た義信は、手柄欲しさに敵陣深く攻め入り、上杉勢を自陣に引き込むための、本陣からの引けの合図を無視して戦い、上杉勢に囲まれ、武田軍は、嫡男義信を逃れさすために、多くの有能な家臣が犠牲と成った。

信玄は烈火の如く怒り、重臣達の面前で義信を罵倒し、殴打した。

此の事で深く傷ついた義信は、より一層父信玄を恨むように成った。

 又、義信には焦りがあった、それは弟勝頼が、初陣の西上野の箕輪城攻めに於いて、守護役の安部勝宝と共に物見に出て、敵の物見と出くわし、敵陣に切り込んで敵の一人を組討にし、追い払った、これを聞いた信玄は、表面上は「この聊爾者」と勝頼をしかったが、内心では大いに頼もしく感じていた。

義信は、このままでは、武田家の跡目を勝頼に奪われるのではないかと、不安の日々だった。

永禄三年(1560年)都を目指して西上中の今川義元が、桶狭間に於いて織田信長に敗れ討ち死した後、今川家は、義元の嫡男氏真が継いでいたが、氏真は凡庸で、大国の今川家を切り盛り出来る様な器ではなかった。

早晩、徳川や、北条の草刈場に成ることは目に見えていた。

その頃三河の岡崎では徳川家康(松平元信)が今川家から独立して、織田信長と盟約を結び、戦国武将として名乗りを上げていた。

 信玄はこの機会に、駿河、遠江に侵略し、北条や、徳川に荒らされる前に併合しようと駿河、遠江に出兵しようとしたが、義信はこれに真っ向から反対した、義信の正室は今川氏真の妹だった。

 また、その頃甲斐、相模、駿河は、甲、相、駿の三国同盟を結んでおり、今川領侵攻は、信義に反するものであると言う理由であった。

 信玄は、盟約などは、その機によって破るために有るようなもので、チャンスを逃しては成らないと説いたが義信は納得せず、父子の亀裂は深まるばかりだった。

 信玄の正室三条夫人に、京の都から付き添って来た女中頭に、加世という女が居た、加世はそんな義信を哀れみ、信玄と、勝頼の命を奪い、早々に、義信に武田家の跡目を継がせようと、謀略をめぐらせ、義信の守役飯富虎昌の寝所に深夜に忍び込み、虎昌を誘惑し、巧みに言い寄って虎昌にクーデターを起こさせ、信玄と勝頼を亡き者にしようとした。

飯富虎昌は武田の赤備えと呼ばれ、多くの戦いにおいても先陣を勤め、勇猛果敢な武将であった。

 虎昌は悩んだが加世との密通は、すでに回りの者にも薄々感づかれており、早々に信玄の耳にも入るだろうと思われた、飯富三郎昌景は、兄の様子がおかしいと探りを入れていたが、ある夜、虎昌に呼ばれた。

 久しぶりに兄弟で酒を酌み交わした後、虎昌はぽつりと言った、「わしも、もう年なので何時死ぬやも知れぬ、其の時は後の事を宜しく頼む」「何を言われますか兄上、まだまだご健勝で有りますのに」「いやわしはもう疲れた」そういって虎昌は昌景に何事か訴えるように瞳の奥をじっと見詰めた、昌景は兄が重大な決意をしている事を悟り、虎昌と別れた後、裏方に赴き信玄に報告し、信玄の身辺の防備を固めた。

 その日の深夜、虎昌は、数人の郎党を引きつれ信玄の寝所を襲ったが、既に信玄の周りの防備は完全であり一味は早々に捕縛された。

信玄は「そちの命は何とか助けたい、正直に申せ」と言ったが虎昌は、「謀反はあくまでも、自分の考えであり、お館様のこの頃の在り様には付いてゆけない、若殿は一切関係ない」と義信を庇った。

切腹を申し付けられた虎昌に、原虎胤が介添え役を買って出た。

 かつて鬼美濃と恐れられた虎胤は、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌と共に武田の四天王と呼ばれていたが、板垣や甘利が村上義清との戦いで討ち死にした後は、飯富虎昌だけが生き残った盟友であったのに、今又最後の旧友を失おうとしていた。

 その後も義信には反省の色が見えず、ますます信玄との軋轢が深まり、やむを得ず、信玄は義信を甲府東光寺に幽閉した、その二年後義信は自害し、勝頼は信玄の跡目と目された。


■信松院松姫

 飯富虎昌が粛清され、義信が東光寺に幽閉された永禄八年(1565年)秋、勝頼は織田信長の養女で、苗木城主遠山勘太郎直廉の娘雪姫と結婚した。

勝頼二十歳、雪姫は十五歳だった。
雪姫はその名の如く雪の様に色白で見目麗しく、勝頼とも睦まじい日々を過ごしたが、義信が幽閉先の東光寺で自害して果てた永禄十年(1567年)十一月嫡男信勝を出産した後、産後の肥立ちが悪く没した、雪姫を愛していた勝頼の落胆はひとしおだった。

 その頃、今川義元を討ち果たして、急激に勢力を伸ばしていた信長は、将軍足利義昭を奉じて入京し天下統一を狙っていたが、圧倒的な軍事力を持つ武田信玄には、何とか機嫌を取って甲斐、信濃に封じ込めておく必要があった。
 慌てた信長は、信玄の四女松姫を嫡男信忠の正室にと申し出、十一歳の信忠と七歳の松姫の婚約が成立したが、両人共未だ幼かったので、嫁入りは先に延ばされた。
 
 その後信玄は、将軍足利義昭に請われて上洛することとなり、織田家との関係も悪化し婚約は破棄された。
信忠との結婚を夢見ていた松姫は落胆し、躑躅が崎の館で泣き暮れていたが、見かねた兄の仁科盛信が居城の高遠城に招き、松姫はその後高遠城にて日々を過ごしていた。

 高遠城落城の数日前、盛信は松姫をそばに呼んで言った、「松、このような仕儀に成るとも知れず、お前をこの城に呼んで申し訳なかった、この上は、そちは、今夜夜陰にまぎれて、逃れてくれ」「いいえ兄上、松は兄上と一緒にこの城で過ごせて幸せでした、松は兄上と一緒に死にとうございます」「お前が死んだら父上や、母上始め武田家代々の菩提を誰が守るのだ、この兄の冥福も祈ってくれ」松姫は兄に諭されやっと承知した。

 その夜半、松姫は、兄盛信の四歳に成る督姫を同行し、伊那の地形に詳しい春近衆の一人に案内され、城を抜け出し入笠山の麓から富士見に抜け、小淵沢、長坂を経て途中韮崎の新府城に立ち寄り、勝頼の姫で四歳に成る貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も帯同し、勝頼達に先立って、護衛の武士に守られながら、北条氏照の居城八王子城を目指して逃れた。

 北条氏照は、氏政の弟で、奥州様と慕われ、親武田派だった。
八王子に逃れた松姫は、北条氏照の庇護の下、八王子横山宿に庵を結び、武田家一族の菩提を弔った。

 その後徳川家康が天下を取り、江戸に幕府を開いた折、武田家の恐怖が覚めやらず、甲信への備えの為に、八王子に千人同心を配置したが、総代官の大久保長安はかつて武田家の家臣であり、同心たちもほとんどが、元武田の家臣だったので、松姫も安心して日々を過ごすことが出来た。
 
こうして戦国の時代を力強く生き抜いた松姫だったが、元和二年四月十六日、温かい人々に見守られながら、五十六歳の生涯を閉じたのだった。
法名は信松院殿月峰永琴大禅定尼と付けられ、現在も八王子の信松院で毎月十六日に命日の法要が執り行われている。

■駿河侵攻

 信玄は駿河進出の備えとして、西上野に進出し、先陣を引き受けた初陣勝頼の活躍により箕輪城を落とし、引き返したその足で駿河侵攻を企てた。

 三河の徳川家康と小田原の北条氏康に使者を送り、駿河と遠江の分割を図った。
すなわち、大井川以西は徳川領に、富士川以東は北条領にというものだった。
家康は承知したが、氏康は拒否した、氏康は使者の真田幸隆に「今川氏真は、わが婿である、窮地に陥った婿を見殺しにすることはできない、駿河を攻めるなら一戦交える覚悟であると、武田殿に伝えてくれ」と使者の真田幸隆を追い返した。

 永禄十一年(1568年)九月二十六日織田信長が足利義昭を奉じて入京した。
信長が入京すると、足利義秀を室町十四代将軍として、京の都の政治を牛耳っていた三好一党は、戦わずして摂津に逃れ、ただ一人六角氏が、わずかに抵抗したのみで、信長は、やすやすと入京した。
信長が、天下を狙っていると感じた信玄は、もうこれ以上待てないと、十二月駿河侵攻を開始した、これにより甲、相、駿の三国同盟は決裂した。

 武田軍一万二千に対し、二万人の今川軍が薩垂峠に陣を張り武田軍を待ち構えたが、信頼を失っていた、総大将の今川氏真の下では兵達に戦意はなく、瀬名、朝比奈、葛山、三浦氏などの裏切りにより、戦わずして敗れ去った。
今川氏真は掛川城に逃れたが、徳川家康軍に包囲され、やむなく北条軍が救援に向かい、徳川軍とにらみ合ったが、氏康と家康が和睦し、今川氏真の身柄は北条氏が引き取り、掛川城は徳川に引き渡された。
ここに於いてついに、戦国の雄藩今川氏は滅亡した。

 北条氏康は、上杉輝虎に応援を要請し、背後から武田領を脅かすように依頼し、輝虎は承知した、すでに北条氏康と徳川家康が、反武田の同盟を結んでおり、これに加えて北条と上杉が同盟を結んだとあっては、武田軍は、三方から攻められ甲斐への帰り道さえ塞がれることになる。
危険を感じた信玄は、一旦占領した駿河を放棄し甲斐に撤退した。

 甲斐に戻った信玄は、京の将軍足利義昭に使者を送り、越後上杉輝虎との和睦の、仲介を依頼した。
永禄十二年六月、相、越同盟が成立し、氏康の五男三郎氏秀が、人質として越後に差し出された、輝虎は、女色を断ち、子がいなかったので北条三郎を嫡男と定め、自分の以前の景虎という名を与え大事にした。

 信玄が甲斐に戻って間もなく、北条氏政の正室として北条に嫁ぎ、武田家と北条家の対立によって甲斐に返されていた、信玄の長女お梅が亡なった。
信玄は、北条家に一矢報いねばと、永禄十二年(1569年)九月、西上野に侵攻し、更に武蔵鉢形城に北条氏邦を攻め、十月小田原城下に侵入し、城下に放火し、物品の横領など荒らし回ったが、さすがの堅城小田原城には近づかなかった。
北条勢が、打って出るのを待ったが、北条は、籠城作戦をとり、一歩も城門を出なかった。
四日ほど小田原城下を荒らし回った信玄は、相模の海も初めて拝んだし、もうこのぐらいで良いだろうと帰途についた。

 城下が荒らされるのを黙ってみていた、北条氏康は「このまま黙って、武田軍をさらせてはならぬ、追討ちをかけて一矢報いよ」と三増峠に、八王子城の氏照と武蔵鉢形城の氏邦の軍を差し向け、帰途の武田軍を襲わせたが、武田軍の意気は高くさんざんの敗戦となった。

 甲斐に戻った信玄は、兵糧を整えた後、十一月駿河に再度攻め入り蒲原城を落とし、駿府を再び占領した。
その頃信玄は、自分の体調の異変に気付いていた、父信虎との軋轢、其の後、嫡男義信との長きにわたる対立で神経をすり減らし、胃を患っていたのに加え、疲労の蓄積で労咳を併発し、ずっと微熱が続いていた、自分の余命が少ないことを察した信玄は、焦っていた。
命のあるうちに京に上らねばならない、神を神とも思わず、仏を仏とも思わない信長めに、天下を牛耳らせてなるものか、信玄は鬼神となった。

 元号変わって元亀元年(1570年)四月、信玄は、将軍足利義昭に絹一万疋を寄進し、勝頼に官途と一字拝領を要請したが、将軍義昭を背後で操る信長によって拒否された。
同年九月から、十二月にかけて信玄は、勝頼とともに、駿河、伊豆、関東に出陣し北条氏と戦った。
次いで、遠江、三河に侵攻し、徳川家康の足元を脅かせた。

 このころ北条氏康が没した。
氏康が死ぬと、当主の氏政は、元々の上杉嫌いも手伝い、甲相の同盟が復活した。
これにて、京への道は整ったと判断した信玄は、元亀三年閏一月関東に出陣、上杉謙信と利根川で対陣し、戦闘らしい戦闘もせず、挨拶代わりに出陣しただけで引き返し、いよいよ西上の準備を進めた。


■武田軍西上

 上洛に際して信玄は入念な下工作を開始した。
石山本願寺の顕如、近江の浅井長政、越前朝倉義景に、使者を送り信玄の上洛に合わせて、織田信長を攻めるように依頼し、また、将軍足利義昭にも、使いを出して、全国に触れを出して信長を討伐せよと、命じさせた。
 
 名ばかりの将軍で、信長に、いいようにあしらわれていた義昭は、「とうとう信玄が動き出したか、これで信長めに一泡吹かせられると、喜んで全国の大名に、織田信長討伐の令旨を発した。

 一連の下工作を終えると、上洛のための軍議が入念に行われ、信玄は人馬奉行の原昌胤に問うた、
「上洛のために必要な、兵と馬の数はいかほどか」「はい、兵の数は、今、当家が集められるのは二万五千、上洛のためには兵三万は必要かと存じますので、各城主に依頼して、あと五千ほど集めねばなりません、また軍馬は六千匹ほど必要かと思われます」原昌胤は答えた。

 次に信玄は勘定奉行に上洛に必要な費用を問うた、勘定奉行は言った「上洛まで半年かかるとして、最初の一月は兵達に自分で兵糧を負担させるとして、残りの五か月間の費用、その他に、荷駄を運ぶ人足が約一万人、荷駄用の馬が五千匹必要で、それらを合わせると、約十二万貫の金が必要ですが、現在当家で用意できるのは、七万貫ほどで、五万ほど不足いたしております」馬場信春がどなった、「不足ですとはどうゆうことか、ではわが軍に上洛を諦めよと言うのか」「人足一万人とは大仰な、人足など行く先々で城を落とし、捕虜をして使えば済むことではないか、また兵糧も、占領した領地で調達すれば済むことであろう」真田幸隆が発言した、
「それがしも、真田殿の意見に賛成でござる」高坂弾正が言った。

 山県昌景は「荷駄の後押しなど、我々でいたしてもよいではないか、兎に角、何としても一刻も早く上洛することが肝心である」と言うと、続いて勝頼が発言し、「そうは言っても、途中で兵糧が尽きてはどうにもならぬ、お館様この勝頼が信濃、諏訪を回って不足分の、費用を信濃衆より調達いたします」また馬場信春が怒鳴った、「甲斐の武田が上洛するのに、信濃衆に頭を下げて、物乞いするなどもっての他ではないか」「馬場、まあよいではないか、勝頼と、勘定奉行に任せよ」信玄が収めて軍議は終わった。

 最後の軍議は、上洛の道筋についてなされた。
信玄は言った、「今回の出陣は私利私欲に非ず、将軍家に請われ天下のためである、我が方の兵力は、わが軍三万、近江の浅井軍五千、越前朝倉軍一万五千、石山本願寺一万五千、それに将軍家が招集できる兵力が五千として、合わせて七万人、敵の織田、徳川連合軍も七万から八万人であろう、よって兵力はほぼ互角、気力、知力に優れた方の勝利となろう、それぞれの思うところを述べよ」最初に勝頼が発言した、

 「わが軍は正義の軍にて、正々堂々と王道を進むべきです、よって、わが甲斐より富士川を下り、駿河に出、まず掛川城、高天神城、二俣城と、順次攻略し、徳川家康の本拠浜松城を攻め落とし、三河から一挙に尾張に攻め入り、京に向かうがよいと思われます」馬場信春が大声で反論した、「そのような事をしていては、京にたどり着くのに何年かかるやも知れず、事は迅速を要するのである、よって、信濃街道を西に向かい、木曾から美濃に攻め入り、一挙に京に向かうが良策かと存じます」勝頼の補佐役安倍勝宝が発言した、

 「馬場殿の意見はもっともでは有りますが、それでは徳川の軍も、尾張の織田軍も傷まずそのまま残ります、それでは京に上っても、敵に背後を囲まれ、補給路を断たれ苦戦に陥る事となりましょう」馬場信春が怒鳴った、「黙れ!背後の敵が怖くて、戦ができるか、新参者のそちなどに意見を言われる筋合いはない、この馬場を何と心得るか、武田家に仕えて四十年、数々の戦場を乗り越えてきた者ぞ」「軍議の場で意見を言うのは当然のことでありましょう、」安倍勝宝が言い返すと、馬場信春は立ち上がり、刀の柄に手をかけた、真田幸隆が割って入り、

 「馬場殿も、いささか年を取りすぎた、人間年を取ると気が短くなるものでござる」「黙れ!真田、わしは年など寄ってはおらぬぞ」今度は真田幸隆に怒りの矛先を向けた、「やめよ、馬場!他の者の意見も聞くのじゃ、軍議を続けよ」信玄の一言で、場は収まった。

 山県昌景が発言し、「わが軍は、東の壁である、軍を数手に分け壁となって西に押し出せば、敵もどれが本軍か区別がつかず、攻めあぐみましょう」「東の壁とはよき言葉じゃ、陽は東から出る事を西の者に示すのじゃ!」信玄の一言によって、山県昌景の意見が採用され、武田軍は、軍を三手に分け、一隊は秋山信友に五千人を与え美濃に向かわせ、もう一隊は山県昌景が五千人で三河に向かい、信玄と勝頼の本隊は、高遠から伊那街道を南に下り、天竜川沿いに浜松城を目指した。



■三方ケ原の戦い

元亀三年(1572年)九月二十九日、山県昌景が先方衆五千人を率いて甲府を出陣し、諏訪より南進、東三河に侵攻し、徳川の支城の武節城、続いて東三河の重要な城である長篠城を攻略したのち、遠江に侵入し、浜松城に迫った。
時を同じくして秋山信友軍五千が、居城高遠城より、東美濃に侵攻、織田氏の重要拠点岩村城を包囲した。
岩村城、城主遠山景任の妻は、織田信長より年下であったが、信長の叔母の(ゆう)で絶世の美女であった、秋山信友は遠山景任を自刃させた後、城に乗り込み、(ゆう)を側室とし、城とともに自分のものとした、織田信長は歯噛みしてくやしがり、「おのれ武田め、いつか必ず皆殺しにしてやる」と目をむいた。

武田信玄と勝頼率いる本隊二万人は、北条氏の援軍二千人を従え、十月三日甲府を出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回したのち青崩峠から、天竜川沿いに南下し、遠江に侵攻、途中犬居城を攻略し、城主天野景連を味方に引き入れた。

信玄は、犬居城にて本隊を二手に分け、馬場信春に五千人を与え、北から徳川の要害二俣城に向かわせ、自らはそのまま信濃街道を南に下り、街道筋の敵の城や砦を次々と落としながら海近くまで出て、西に進み、二俣城に南側から迫った。

十月十三日に只木城を落とした馬場信春隊は、其の後徳川氏の本城浜松城と支城掛川城、高天神城を結ぶ要所、二俣城を包囲した。

十月十六日には、武田軍本軍も加わり、二万の兵で城を囲み、降伏を勧告した。
二俣城に籠る徳川の兵力は千二百人ほどだったが、武田軍の降伏の勧告を拒否したので、十月十八日から、武田軍の攻撃が開始されたが、要害の二俣城は天竜川の崖際に建ち、天竜川より水を引き入れ、三方を堀となし、東側は空堀を掘り防備を固めていたので、武田軍の大軍を以てしても攻略は容易ではなかった。
武田軍は水の手を断とうとしたが、城から釣瓶にて天竜川の水を汲みとることが出来るので水断ちは通じなかった。

十一月初旬には、三河から駆け付けた山県隊五千も加わり、三万の兵で二俣城を囲んだ。
軍議が重ねられ、本丸と、一の丸、二の丸の間に分断の堀を掘ろうと言うことに成り、甲斐から多勢の金堀衆が呼ばれた、この作戦が成功し、約一か月かかり二俣城は落城した。

二俣城の落城は、浜松城に籠る家康の所にも直ちに知らされた。
その頃、織田信長より、佐久間信盛、平手汎秀を大将とする、援軍三千人が浜松城に入り、籠城する兵力は一万一千人ほどに成っていた。

「いよいよ、武田の大軍がこの城を囲むか」徳川家康は武者震いした。
攻略した二俣城に城将として、依田信廉と兵千人を残し、十二月二十二日武田軍は、遠州平野を西進した。
家康は、当然、次は本城浜松城を囲むものだと思い、籠城の準備を整え待ち構えていたが、武田軍は、浜松城を無視してその北方の三方ヶ原を横切り、西に向かおうとした。

これは老練な信玄の、若い家康の性格を読んだ作戦だった。
信玄は号令した、「家康は、無視されて、目の前を通り過ぎられたとあっては、必ず討って出るだろう、もしそのまま見過ごしたとあっては、もはや家康の威信は地に落ちる、このまま西に進んでも、三河衆は皆、武田に降るだろう、討って出たら、山津波のように、一挙に踏みつぶせ」浜松城の天守閣から、武田軍の動きを探っていた家康は、武田軍が黙って目の前を通り過ぎようとするのを見て、怒り心頭に発した、「おのれ、この家康を無視しようとするのか、この家康、武田軍など恐れはしないぞ、討って出るぞ、続け!」と飛び出した、重臣たちが止めようとしたが、間に合わず、皆急いで後に続いた。

三方ヶ原の小高い丘の上で、これを見ていた信玄は、ばらばらに坂道を駆け上ってくる徳川軍を見て、「家康め、はまったか、それ一挙に飲み込んでしまえと」采配を振った。
雪崩のような武田軍の攻撃にさらされた徳川軍は、一刻の戦闘で二千の兵が戦死した、一方の武田軍の損傷は二百人ばかりだった。

この戦闘で織田軍の将、平手汎秀が戦死した。
取り巻き数人に守られ、命からがら、浜松城に逃げ帰った家康は、城門を開かせたまま、(空城の計)を取り、そのまま広間に戻り、「絵士をよべ、早く絵士を呼ぶのじゃ」と周りの者に言いつけ、自分の今の情けない姿を描かせ、生涯座右に置いて、戒めとした、家康は恐怖のあまり脱糞していた。

徳川軍を追って浜松城まで迫った山県昌景隊は、(空城の計)によって警戒心を煽られ、「これは何か敵の罠だろう」と引き返した。

ほぼ兵力を温存した武田軍は、遠江で年越ししたのち、東三河の徳川の重要な拠点である野田城を攻略した。
しかし、このころ、冬の寒さと、過労により、信玄がかぜをこじらせ、病の床に臥すこととなった。

織田信長から三千人の兵を預かり、徳川の助勢に加わった佐久間信盛は、朋輩平手汎秀他大勢の兵を失い、岐阜城に戻り信長に謁見したが、信長は、重臣達の面前で罵倒し「三千もの兵を預かりながら武田の進撃を一時も止められず、多勢の兵を失い、平手まで死なせるとは、この役立たずめ、そちの顔など見とうもない、さがれ!」と怒鳴り足蹴にした。

これを機に、信長の腹心であった佐久間信盛は、信長から遠ざけられ、何かにつけ「この役立たず!」と、疎まれた。

このことが、後の設楽ヶ原における、織田、徳川連合軍と、勝頼率いる武田軍の世紀の一戦の際、佐久間信盛謀反の伏線となった。



■父の死

 天正元年(1573年)二月十五日、武田軍は三河の野田城を陥れた。
しかし、此の頃から信玄の病状が重くなり、信玄を帯同しての進軍は無理となった。
信玄は弟の信廉を枕元に呼んで、「わしをここに残して、勝頼を大将として、このまま軍を進めよ、京を目指せ」と言った。
 
信廉は重臣達を集め、信玄の言伝を伝え相談した、勝頼は、「それがし、お館様に変わり、武田軍の総大将として上洛し、京の都に武田の御旗を打ち立てたい」と言った。

 勝頼の側近の安倍勝宝は、「わが軍は、甲斐を発ってから三月あまりで此処まで進んできた、京まであと一歩である、この機会を逃したら、もう二度と上洛など望めないだろう、ここは何としても、勝頼様を総大将として上洛を目指すべきである」と発言すると、馬場信春が発言し「お館様あっての武田軍であり、お館様あっての上洛である、もはや、お館様のいない上洛など無意味である、たとえ上洛したとしても何ができるというのか、此の上は一刻も早く甲斐に引き返し、お館様の病状の回復を待って、再度上洛を試みればよい、」山県昌景と、高坂弾正が、馬場信春の意見に賛同した、勝頼は不満そうな面持ちで一同を見回していたが、信廉が引き取って「この野田城では防衛に不向きである、ともかく要害の長篠城まで引き、お館様の病状を見て、甲斐に引き返すか、京に上るか、再度決めよう」と言うこととなり、武田軍三万人は、長篠城に向かって引き返した。
 
 長篠城には、信玄の側室の一人里美が呼ばれ、看病に当たったが、信玄の容態は後退するばかりだった。
そのような中でも信玄は、「なぜ軍を進めぬ、京を目指せと」と、譫言のようにつぶやいた。
このままでは、もはや上洛は無理だと判断した信廉は、重臣達を集め、「お館様をお連れして甲斐に戻る、お館様には、京に向かっていると告げよ」と言った、もう誰も反対する者はなかった。

 長篠城に約一月滞在の後、武田軍三万は甲斐に向かって引き返した、敵や、味方の兵にも信玄の病状が重いことを悟らされないように、信廉が信玄の影武者となり、勝頼と共に進軍の先頭に立った。
信玄は輿に乗せ、さる寺の偉い御坊様を帯同していると、味方の兵にも偽った。
 
 信玄が、甲斐に向かって引き返したことを、忍びの者の報告により察知した、織田信長は、この機会にと兵を集め、越前朝倉義景と、近江浅井長政の討滅に向かった。
伊那街道を北に進み、伊那の駒場まで来たとき、信玄は大量の喀血をし、重体に陥った、すぐに近くの庄屋の家に運び込まれ、主治医の御宿監物が、懸命の手当てを行ったが、天正元年四月十二日、ついに、戦国の巨星武田信玄は、その志半ばにて、波乱の生涯を閉じた、信玄の遺体は、近臣の者によって、こっそりと荼毘にふされ、躑躅が埼の館に帰還した。

 信玄から、武田家の留守を預かり、「上洛の軍に加えてくれ」と信玄に何度も懇願したが、「この武田家の、留守を預かれる者は、そちをおいて他にない」と諭され、じれったい思いで待っていた真田幸隆は、重臣達一同による秘密の弔いの席で、上洛に固持した勝頼に咬み付いた、「なぜ、重体のお館様を抱えて、一月も長篠城に留まられた、すぐに甲斐に引き返し、養生すれば、お館様のお命は伸びたかもしれぬのに」勝頼に代わって安倍勝宝が言った、「上洛は、お館様の希みである、勝頼様は、お館様の希を叶えようと致したまでのこと」

「いかにお館様の希とあれど、お館様はわれらの神であり、すべてである、そのお館様のお命をお守りすることこそが第一義、自分の手柄に目がくらみ、人の命を軽んじるようでは、この先、」言いかけた幸隆を、馬場信春が遮った、「真田、やめよ!今更そのような事を言っても、詮無きことだ」勝頼は立ち上がり、真田幸隆に向かって、「この先、どうだというのか、真田、申してみよ!」武田信廉が勝頼の前に飛び出し、平伏し、「勝頼様、お許しください、真田は、お館様の亡くなったことで、どうかしているのです、」そして皆の方に向き直り言った、

「お館様は死の間際、わしを枕元に呼んで、遺言を申した、わしの死は、三年間伏せよと、武田家は信勝を後継ぎとして、元服までの間、勝頼をその後見役として頭領と仰ぎ、三年の間に、盤石の態勢を固めた後天下を目指せ」
勝頼が立ち上がり宣した、「わしは、お館様の遺言により、信勝元服までこの武田軍の先頭に立つ、わしに逆らう者はこれを排す」信玄は、諏訪衆、信濃衆のことを、おもんぱかり、勝頼を、武田家の後継ぎとしなかった、此のことが後に武田家の御親類衆による、深謀、遠謀の素となり、武田家の滅亡を早めた。

                              





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ひょうたん桜は語る 其の二 寺村観音堂

伊予武田のリンク

ひょうたん桜は語る 其の二 「寺村観音堂」

                  仁淀川町社会教育委員  岡林照壽(社会教育活動から)

・寺村観音堂について

 寺村観音堂は、成福寺と長宗我部地検帳(国重要文化財)から初見が有ります。一方土佐の武田家系図に勝頼の戒名が「成福院殿栄秋道勝大居士」と、又天正13年流光山建立と書かれていますので天正13年(1585)が寺名「流光山成福寺」の始まりであると思います。

teramura05.jpg
「流光山成福寺」(りゅうこうさん じょうふくじ) 
 岡谷市小坂観音院「龍光山昌福寺」 

 此の「成福寺」について系図等から拾ってみたいと思います。武田家系図には人王始祖神武天皇より56代帝位・清和天皇から続く系図で代々鎮守府将軍職ですが5代目頼信が始めて甲斐守と出てきます。7代目義光は武田家元祖也と書かれていて武田家の始祖と云われています。
義光を武田の元祖として、2代目義清は甲斐国を領し甲斐武田家の元祖とも云われています。此の人物に始めて「成福寺贈号に云」と出てきます。

家系図-007

12代盛行の次男時信の時代安芸(広島)へ移り活躍又甲斐に帰り繁栄は信玄公に至ると、何れも「成福寺贈号と云」と。甲斐武田流11代信成「快川和尚謚号云」などが数箇所出てきます。19代晴信(法性院機山信玄)と称す。新善光寺葬る。この場面は興味を引くところですね、恵林寺に葬ったが正しいのでしょうが、諏訪湖に葬ったなど謎が多く今だ確証は無いとも言われています。戒名は恵林寺殿機山玄公大居士神儀


神儀と云うのも謎ですが、かつて諏訪神社の大祝(最高位の神官)を司っていた勝頼が喪主を行っていますので善光寺で一旦葬儀を行ったのかも知れません。
20代勝頼(諏訪神四郎・伊那四郎・大崎玄蕃尉)「成福院殿栄秋道勝大居士」と戒名に「成福」の2文字が最後として出てきます。戒名の中の「秋道」驚きですね、勝頼が土佐に来たとき頼った香宗我部家の初代が「秋通(あきみち)」でした。


「成福寺贈号に云」と「快川謚号に云」の二つの文字は同じ意味を持っていて、成福寺は鎌倉に有り、貞永元年(1232年)、鎌倉幕府三代執権北條泰時の末男、泰次により建立されています。4代目の信義の時代源頼朝を助けて平家打倒に貢献しますが、勢力が大きくなりすぎて頼朝に力を削がれ、子供の一条忠頼は鎌倉に呼び出され殺されます。この忠頼の子供の秋通が1193年土佐に派遣され、後の香宗我部家となり、400年後勝頼が香宗我部家を頼り土佐に入ると系図に書かれています。


 快川は快川結喜(かいせん じょうき)快川国師とも言われ武田信玄に招かれて恵林寺に入寺した人物です。織田信長の子の信忠が甲斐に進攻した時に武将六角義弼を匿ったことで他の僧侶達と共に山門で炙り殺された事件がありました。

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 系図の最後に12名の戒名がありますが、土屋惣蔵が快川を含む4人の和尚に相談し報告されたことが書かれていますので信玄に報告したのではないでしょうか。

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 上記から、この系図が恵林寺の快川国師が作成に関与した痕跡ではないかと思います。
観音堂の裏側(北)に勝頼の3男正晴の墓があります。

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(武田正晴・松村六大夫・寺村六大夫の墓所・中央石群)

 系図には「寺村寺の段に葬る」と、母は三枝三郎晴友の娘と書かれています。地域では三枝を(みつぎ)と読んで勝頼の側室として鳴玉神社で一緒に眠っています。
 柿の元に葬ると書かれた鳴玉神社の柿木、桜のひょうたん桜と同じ時代を生き延びた強者です。
                      終わり
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