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ひょうたん桜は語る 其の1

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ひょうたん桜は語る 其の1
      作者:仁淀川町社会教育委員 岡林照壽

・ひょうたん桜の古今

わたしは何処から来たのだろう。
時間を遡って見てきた事を語ってみたいと思います。

 平成24年4月7日山梨県甲府市で信玄公祭りが有り其れを見学に行きました。
町長から預かった「宇宙桜」“ひょうたん桜の苗木1本と、桜地区で調達した3本を車に積み込んで高知を出発しました。
 
 午前中は同市の入明寺で行われた武田信親(龍宝)公の430年忌法要に参加、甲府市長始め武田家当主武田邦信氏以下、全国の武田家、家臣団末裔の集まりの中に私は居ました。

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 その後武田旧温会総会に出席し、懇親会の席上でスピーチを述べる機会が有ったことは栄誉なことでありました。
午後からの信玄公祭りは日本一の武者行列で1061人の武者は世界一でギネス認定が有ったと翌日の新聞に載っていました

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 4月8日山梨県韮崎市市民交流センターで「宇宙桜」“ひょうたん桜”の苗木と「宇宙大豆」“甲州ナカセンナリ”との交歓式が行われました。両者は同じ宇宙実験棟エンデバーに乗っていた不思議な縁です。
ひょうたん桜は甲斐武田氏の祖・信義 の菩提寺願成寺に、一本は甘利沢川さくら公園(甘利山倶楽部)に其々植樹されました。

 
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この交歓会にはもう一箇所、愛知県新城市の長篠・設楽原鉄砲隊(菅谷哲也隊長)のグループが参加していました。長篠の戦いは天正3年(1575)武田勝頼が織田徳川連合軍の鉄砲隊に惨敗して武田家滅亡に繋がる戦いの有ったところです。長篠・設楽原鉄砲隊からは桜淵公園のソメイヨシノ(寒桜)の苗木と「ひょうたん桜」との交換をし、信玄塚の近くに植えられました。頂いた寒桜は大崎八幡宮の境内に植樹しました。勝頼縁の3地域のトリプル交換式となったわけです。

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 桜地区の「ひょうたん桜」の説明板には樹齢約500年と、また天正13年(1585)土地の始祖大崎玄蕃がここに居住したとき、この樹下に大山鎮めとして大山祓神を祭祀したと言い伝えられ、昭和28年県天然記念物指定とも書かれています。(カンバンから)

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 少し時代を遡って、昭和2年12月27日付け土陽新聞(現在の高知新聞)に、表題が「名勝史跡天然記念物・大藪の彼岸桜」、文中「俗にひょうたん桜といふ地上五尺の幹周り一丈四尺、地面に接する所は一丈七尺ある。樹枝は広がって被覆面積実に 百歩におよぶといふ」と書かれています。

また、昭和54年11月11日付け発刊の、武田勝頼公(大崎玄蕃尉元春)始祖「土佐大崎家系譜」高知市西塚ノ原70-7、尾崎豊重(書)では、「わが大崎家の始祖は、大崎玄蕃大神として大崎八幡宮に鎮座している。また始祖の植えたと言い伝えの“樹齢三,四百年の桜”は、花の咲くころは実に壮大で美しい。山頂にあるので多くの人のみることもないが、この桜を、その子孫として、是非一度見ていただくことをお勧めしたい。」と締めくくっている。
この時代大藪(桜地区)で取材した感想が書かれていますが、桜は世間一般には余り知られて無くて“ひょうたん桜”とは書かれていない。
(なお、元春は長宗我部国親の弟で伊予武田黒川家に養子に入った人物では無いかと思われます。)

 天然記念物の大藪の江戸彼岸桜(俗称)ひょうたん桜は「固有種」だと言われています。
一方長野県伊那の高遠桜も江戸彼岸桜で天然記念物の固有種と言われています。
 高遠桜は高遠城に有る桜で、勝頼が最初に城主となった城です。歴史の運命から武田信玄の後継者として甲斐武田、躑躅ヶ館の館主となった武将です。

 午後は甲府城で行われた講演会に出席、山梨県公式ガイドブックの中に甲州寺子屋・講演会が掲載されていて、演題が「武田勝頼は土佐で生きていた!」を聞くのも今回の訪問の目的でした、山梨県民にとって驚きの内容だったと思います。

 ともあれ、桜の苗の交換を契機に勝頼ゆかりの地との交流が広がることを願ってやみません。最後に今回の訪問記に多大の御指導を頂いた「武田勝頼・新府にらさきの会」代表の高木智朗氏に感謝申し上げ終わりとします


桜の交換式の写真 韮崎市民交流センターにて

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武田信勝・大崎五郎・輿左衛門・山岡勘右衛門

武田信勝は土佐で武田家の継承を行った!

擐甲の礼(世継式/大崎八幡宮)2012/10/13
第2回仁淀川子ども祭りが同時開催

時は今、天正13年(1585年)2月8日にタイムスリップして大崎の陣大崎八幡宮の境内において烏帽子親「長宗我部元親殿」をお迎えし、奉行立会人として・香宗我部親泰殿・片岡光綱殿等をも同席願い、武田家第21代当主となられる、武田信勝公の継承式「擐甲の礼」を執り行います。

・烏帽子親である長宗我部元親公より「擐甲の礼」を執り行う旨の宣告がありました。勝頼公より烏帽子が奉行役片岡光綱殿に渡される。(三枝夫人が手助け)
・片岡光綱より、武田信勝に烏帽子を載せる(三枝夫人が手助けする)
・三献の儀(三三九)三枝夫人・檮姫夫人が盃を捧げる役
 ただいま、勝頼から信勝に三献の儀の三三九度の杯の交換が行われています。

 大崎八幡宮境内の庭では静寂の中で、風そよぐ天正13年2月8日午前9時00分・粛々と継承式の儀式が行われています。
甲斐武田は、天正10年3月11日、田野の天目山で滅亡したと報じられています。しかし替え玉作戦で難を逃れた勝頼一行は、土佐の山間で土佐武田として復活しようとしています。土佐で土佐武田として生き抜く覚悟であるようであります。

 勝頼から信勝に継承された土佐武田は、長宗我部元親により武田の再興が許されようとする瞬間であります。世紀の出来事であります。


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武田信勝は、甲斐武田21代目として、土佐に復興しました。この後大崎八幡宮の神前にて、韮崎から携えてこられた武田王武大神・武田の始祖新羅三郎義光公から4代目信義に至る奥方・兄弟12尊の御正体に対しまして、武田家21代目継承式を終えたことを報告いたします。

・祝辞:長宗我部元親公(祝辞を読み上げる)「土佐に来て3年、我が長宗我部軍と戦場をともにし、今まさに四国を手中に納める時が来たこの時、武田家一族の働き実に見事なものであり感服いたし候。
天正13年2月8日此の「大崎の陣」を本拠地として「信勝」に安堵致すものである。今より吾川山荘と伊豫方面の防御に精を出すがよい。土佐武田の復興をここに宣告する、おめでとうございます。」

・祝辞 :武田勝頼公  ( 祝辞を読み上げる )
 「甲斐を逃れて3年あまり、大航海の末四国に上陸、立川の峰を越えて、香宗我部家を頼り、土佐の植田城の土居に入る、比江山掃部助の門田屋敷に世話となるが。不穏な情勢から片岡氏の所領「吾川山荘」の安居村樫山に引きこもることとなった。
 長宗我部元親軍と連携して、四国攻めに参加することとなり大崎の土地を安堵された我々は寺村に出てきて、天正13年・武田家の家臣たちの菩提を祀るため「流光山成福寺」を建立致しました。
そして天正13年2月8日大崎に出てきて、ここ大崎八幡宮境内において信勝への継承式「擐甲の礼」を執り行うことが出来ました。ひとえに元親公の心温まる沙汰であると感謝申し上げます。此を覚悟として、大崎八幡宮社殿を建立することを、神前にお誓い申し上げ奉ります」



勝頼・美津岐(三枝)夫人墓前に報告

鳴玉神社(なるたま・めいおう)柿ノ本に葬る(系図から)
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信勝の墓前に、武田家21代御館様と成られた!報告

烏帽子岩と川井土居との間に川端に森あり此の所に葬る(系図から)

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信勝について
勝頼の嫡男、母は信長の養女・遠山勘太郎友信の娘、永禄10年(1567)信濃伊那郡高遠に生まれ。寛永6年(1629)7月11日63才逝去、墓所は烏帽子岩と川井との間に川端に森あり此の所に葬る。父勝頼と共に大崎に下り山岡勘右衛門と云うと、A/C系図に書かれている。
戒名:清照院殿峯岩浄空禅定門
津野町貝ノ川(地検帳では甲斐川)に大﨑神社あり、祭神は大﨑玄蕃で最初に甲斐川に来たのが大﨑五郎衛門として祀られている。
後分家して須崎市上分横川にも分霊して祀られている。


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同時開催の第2回仁淀川こども祭り

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