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武田の里 大崎の陣 “まいさるく”生天目の陣

武田の里 大崎の陣 “まいさるく” 生天目の陣
土佐武田takedabishi_type1.jpg甲斐武田武田菱社家岡林kajinokamon1.jpg

katuyori22.jpgkatsuyorikunnirazaki.jpgたけちゃまグー由布姫キャラクター(家紋・寺紋の柄)もとちかくん
   土佐      甲斐     安芸      諏訪      長宗我部

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令和5年度武田勝頼土佐の会総会 ブログ画面上にて開催しました。
*総会日時令和5年4月21日午後6時~8時
 総会場所:仁淀川町大崎340-1 会長宅事務所
(書面総会 令和5年4月3日~21日17時迄)
ブログhttp://terutosi.blog.fc2.com/blog-entry-82.html
令和5年4月3日上程 会長 岡林 照壽 議案は、提案通り可決予算承認されました。
町外会員の皆さま協力有り難う御座いました。
会費納入が未だのかたは引き続き宜しくお願い致します。
,郵便振替払込案内 名義:武田勝頼土佐の会 口座番号:01640-0-132187

今年のイベント1,6月3日設樂原古戦場決戦場まつりに参加しました。
*勝頼公の墓所「鳴玉神社」の遺影を胸に焼香(設樂原の決戦、大将は武田勝頼公なり)
設樂原02慰霊祭 67勝頼勝頼墓所遺影 設樂原01信玄塚

秋のイベント2、玄蕃祭りの案内 2023年10月1日(日曜日)
   *以下のイベント「玄蕃祭・勝頼公祭」チラシを参照、コピーしてご活用下さい。
EPSON012.jpg玄蕃祭・勝頼公祭 EPSON013.jpg武田家12尊説明 EPSON011.jpgイベントマップ

場所は、大崎八幡宮玄蕃祭「生天目の陣:勝頼公祭」
10月1日(日曜日開催決定) 場所は仁淀川町大崎、大崎八幡宮~成玉神社
祭典は午後1時30分からです。  終了は4時頃です。
祭神、武田家始祖12尊、勝頼公変名大崎玄蕃、三枝夫人変名美津岐夫人、その他土地神等です
祭典の後おはなれ、神輿に勝頼公が乗り御旅所墓所鳴玉神社まで追随し行列に参加、武者行列鉄砲隊か続きます。
御旅所で祭礼の後、長宗我部鉄砲隊の演武、餅まき、直会。

直会について。
地区の氏子は八幡宮に帰り地区外からの勝頼会員関係者等も神社での直会に参加出来ます
参加希望者は9月28日迄に申込が必要です。飲食有料、当日受付で徴収 二千円

生天目の陣(勝頼公祭り)開催します。
全国の武田家の末裔様、勝頼会員関係者の御参拝をお受け致します
参加者は当日大崎八幡宮の受付記帳頂けば玉串奉納が出来ます。

リンク案内
長生教 大崎八幡宮 鳴王神社 流光山成福寺 宿毛39番赤木山延光寺  中村石見寺  武田勝頼 武田信勝 武田正晴 武田雅楽 香宗我部  野中兼山妾池キサ  仁淀川町 観光協会 イベント案内  講演会&パネル展案内  会員募集  資料小説新販売 歴史資料館「かつより  安居神楽  勝頼宝物  玄蕃太鼓  玄蕃踊り  武者行列  擐甲の礼 地域づくり活動  ひょうたん桜  彦根城安土城  伊予武田  甲州軍団  勝頼の生涯
    
781-1501高知県吾川郡仁淀川町大崎340-1
武田勝頼土佐の会  電話0889-20-2003
メールkindsea@shirt.ocn.ne.jp


目  次 (過去の活動報告)
2008平成20年 武田勝頼土佐の会発足
2009平成21年 かつよりくん弁当創作コンテスト・イベント始まり
2010平成22年 武田の里フォーラムin仁淀川町 スイートフェス創作コンテスト
2011平成23年 韮崎市「韮崎ふるさと祭」土佐日曜市<武田八幡宮・諏訪大社・小坂観音院>
2012平成24年 全国武田の里サミットin土佐::戦国会議・秋の陣秋の陣2IN信玄公祭
2013平成25年 新城市第24回設楽原決戦場祭り ・決戦場祭り2・武田雅楽の調査
2014平成26年 新城市第25回設樂原決戦場祭り:秋の陣 玄蕃勝頼公祭//野中兼山仏像発表会
2015平成27年 全国武田家調査其の1生天目の陣四国 其の2秋の陣勝頼公祭り
2016平成28年  新城市第27回設樂原決戦場祭り・・・歴史講演会
2017平成29年 新城市第28回設樂原決戦場祭り 野中兼山と谷秦山の妾と子供 彦根城安土城
2018平成30年 新城市第29回設楽原決戦場祭り顧問代理参加 
2019令和元年 勝頼の墓所玉垣落成
2020令和2年 武田の里トップ画面 大崎の陣
2021令和3年 鳴玉神社(鳴王神社)扁額
2022令和4年 信玄公生誕500年イベント 第1回歴史講演会 武田八幡宮創建1200年祭 第2会歴講演会
2023令和5年 第34回設楽原決戦場まつり6月3日">第34回設楽原決戦場まつり6月3日


包括宗教法人「長生教」全国総本山<大崎八幡宮神官の社家・諏訪神社神官>勝頼に同行した神官
781-1501高知県吾川郡仁淀川町大崎33番地
長生教被包括宗教法人 神道四魂論 長生教教草 長生教御札 共同納骨堂「長楽廟」 どんど焼き
公認:長生教ホームページ





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テーマ : お墓・供養
ジャンル : ライフ

2022令和4年度歴史講演会

2022令和4年度歴史講演会
第1回7月31日明智光秀・武田勝頼生存説
         戦国武者陶人形&紙人形展 

講師:橋詰和人氏   片岡昌一氏
場所:仁淀川町本庁多目的広場&ロビー





第2回歴史講演会 野中兼山と谷秦山の真実の罪
              土佐藩の陰謀説「武田勝頼達一族抹殺事件」
                歴史に絡む女性達

講師:岡林照壽氏 坂本世津夫氏 中津攸子氏 片岡昌一氏
真田忍者演武:伊与久松風氏
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2023令和5年 第34回設楽原決戦場まつり6月3日土曜日

2023年第34回設楽原決戦場まつり6月3日土曜日
愛知県新城市竹原・・・・・設樂原古戦場にて慰霊祭参列。
今年は久しぶりに参加しました。前日に奥三河に宿泊していて台風を逃れられた。
当日は高速道、一般道全て台風のため通行制限が有り、関東方面から出席する方は不参加
その中で、山梨県韮崎の武田の里をまもる会だけは3時間遅れで参加されました。
到着まで資料館でまっていてお会い出来ました。
短い時間ですが交流はd出来ました。又来年会いましょう。
設樂原001

61勝頼 信玄塚の墓前設楽戦没者塚「勝頼公の墓所鳴玉神社遺影を捧げる」

62勝頼 慰霊祭参列者に参列。

63勝頼 設楽原をまもる会、前会長と私

67勝頼 勝頼墓所「鳴玉神社」遺影と共に参列。焼香にも胸に抱き一緒に参拝。





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野中兼山と谷秦山の罪状

野中兼山と谷秦山の罪状
 上記題名で小説を執筆中です、以下の参考資料から分析
      副題:土佐藩の陰謀説「武田勝頼一族の抹殺事件」
           歴史に絡む女性達

資料、1
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資料、2
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・谷家との関係「兼姫」
 
谷家との繋がりについては、武田家系図に勝頼の「参男正晴→孫勝正→」曾孫「兼姫」が父病死の時(十三才)枝川村寺村彦左衛門清次に養育に出された事が出てきます。
正晴は、宿毛平田寺山赤木山延光寺にある寺主の家、松村右京秀春の養子に入り「松村六太夫」を名乗っていて、のち現仁淀川町寺村に帰って「寺村六太夫」を名乗っていますが、何故寺村を名乗ったのかは不明です。
考えられる事は、寺村の流行山成福寺のある場所は現在寺村地区ですが、地検帳では地名が「下大崎」と成っています。
つまり寺村に帰った時点・関ヶ原前後に地名が「寺村」に成ったと云えます。
成福寺の寺が有ったので「寺村」なのか、宿毛の寺山から帰ったので寺村なのかは定かで無いですが、前者が有力かと思います。
この寺村家は、勝頼の嫡男信勝、その子の孫に当たる嫡男信房の嫁が枝川村の寺村家から来ていまして、土佐武田家の嫡流義男と晴郷が生まれています。
この義男と晴郷は天草の乱(1637~1638)に出張で出向いている事が系図に書かれています。
出張ですので、土佐山内藩に依って派遣されたと思います。
この寺村家に養育に出されて居ますので、従兄半の信房の、寺村家の嫁方に養育に出された事になります。
 そこで二年ほど養育されてから、十五才になった兼姫は一六二四年「家名を隠し枝川村百姓源右衛門と申す者権親として彼の娘と称して寛永元年甲子潮江谷氏に奉公」にと系図に書かれて居ますが、どうも妾だったと思われます。
谷家は三代谷神右衛門・当時三十六才の時の妾だったと思われます。
谷家には一六二四年に妾に入っていますが、谷神兵衛重元は同年に生まれていますので、系図から見ると中井家から嫁を貰った様に成っていますが、長男権右衛門は氏名と出生が不明で、弟彦兵衛重親は生死年月日が不詳に成っています。この兄弟両名は、家督を引き継いで居ませんので何らかの事情で家督を引き継げなかったものと思われます。
寺村兼には直ぐに子供が出来て、同年一六二四年に谷神兵衛重元が生まれていますので、此の年の初めに嫁ぎ、その年の暮れには生まれたことに成ります。
此の谷神兵衛重元の参男が谷秦山で、後年明治に活躍する谷干城も同じ血筋の系図に出てきます。
谷干城は、明治という新しい時代にふさわしく快活活発に活躍して、西南戦争などで実績を買われ出世して政界にも進出した人物です。むしろ武田家の血筋を引いたことが功を成したかの様に、正二位勲一等子爵にと活躍した人物です。
 ところが、兼は二年ほどで暇を取らされ一六二五年佐川の中山氏に奉公に行きますと言うか、出され
たのが本当だと思います。後日、武田の血を引き継いだ婦人だと解ったのだと思います。
中山與市兵衛直秀の准妻、つまり妾として嫁いだ事が系図に出てきます。
 此処では、男女四人を産み養育していますので、女として成熟した女性だったと思われ、武田家の血を引き継いだ子供達が生まれています。
何れも武田の血を引き継いで居る事が、その後の改易と深い繋がりが有った様です。この事がこの後に起こる事件えと繫がって行くのであります。
 中山氏については、信勝の孫「晴郷」が中山の土居に養子に入っています。
 つまり、晴郷が誘ったか兼姫が誘ったかは定かでは無いですが、お互い頼ったと考えるが正当な考えです。
この時代晴郷は名前を頻繁に変えていまして、武田家の一族を隠す為でしょうか、山﨑彦六を名乗り、中山へ入ってからは中山九郎右衛門を名のっています。
 この時代天草の乱に兄義男と友に参戦しており、兄(義男)は腰に鉄砲玉を受けて片端となり跡目を弟「晴郷」に譲っています。
 この島原の乱に参戦したことが嫡流の系図に書かれて居て「勝頼の曾孫で在ることを名乗れば戦に出ることも無いのに」とか書かれて居ますが、この時代土佐藩内では既に武田勝頼の身内と名乗れない理由が有った様です。
 其の理由は、中山の土居での屋敷の谷川に橋を架けた理由でも、中山氏は佐川の深尾から改易をされています。
 佐川「沖の古城」山﨑氏・武田家嫡流の改易も同時期に有ったと思います。
 古城は最近までありましたが、老朽化で最近取り壊されています。
中山屋敷の横を流れる一m位の谷川ですから小さな橋の普請が理由だった様ですが、因縁を付けた形で改易にされています。
其れは佐川の中山氏の系図に出てきますので、武田の血筋の中山九郎右衛門が養子に入ったことと、兼姫が妾に入ったことが原因かも知れません。
 また、寺村の流行山成福寺は恵林寺の曹だったのですが、深尾の菩提寺青源寺の和尚は、深尾の要望だったのか、初代は恵林寺から来ています。
 成福寺は青源寺の末寺だったので、睨みをきかす為だったと思います。
・エピソード(系図の中に義男と晴郷が島原の乱(1637~1638)に行ったときに,川井土居では火事があり宝物系図等が焼けて、今の系図はその時寺村義助宅にある系図を晴郷が写したと書かれています。
 土佐武田家は、分家等では複製が幾つか作られていた証拠です。
 義助について、勝頼の曾孫で「兼姫と池きさ」の兄弟で兼姫の弟です。
土佐に来た武田家の者達は長宗我部氏と一緒に阿波に参戦した伝説からして、香宗我部氏に配属されていた可能性の証拠かと思います。
 他に、馬場平兵衛(美濃守の子孫)・大崎新右衛門等の名前がありました。
 香宗我部氏自身は甲斐武田元祖武田信義の孫に当たる一条秋通が頼朝に因って土佐に派遣された人物で、遠く遠祖は日本武尊の子「武田武尊」を御本尊とした現韮崎市の武田八幡宮と、武田発祥の地として現在に伝えている武田八幡宮、清和天皇その末裔「甲斐源氏新羅三郎義光公」の血筋でも有ります。
 此の香宗我部家臣団名簿は、以前土佐史談会の副会長をしていた内川浩輔氏から頂いた資料からも確認出来ますが、赤ペンで内川氏本人が強調して示唆頂いて居ますので間違い無いと思います。
資料は「左衛門佐様御支配御家臣連名」いわゆる香宗我部家家臣団名簿です。
 最後の蘭に  天正十六年戌子三月二五日 池内肥前頭直武 花押
中山田左衛門佐様取次「掘輿平殿 金子助右衛門」宛で終わって居ます。
内容については、四組の部隊編成かと思いますが、四段に別けて氏名が列記されていまして、先頭の其の四人は隊長格だと思います。
*中山田吉左衛門殿以下六四人・*池内肥前頭以下六三人・*西山兵太夫殿以下六三人・*久武右・・・以下六三人(一部印刷漏れあり)
別枠で六名・報告者の池内氏を含めると合計二六四名の武将軍団だったようで、それぞれに足軽が付いていたので千人単位の部隊で有った様です。
 報告者の池内肥前頭直武は筆頭家老だと思います。
香宗我部氏の軍隊は、四人の家老達で運営されていたのでしょう。
 名簿の中に池内性が二十名居ます、其れも名簿上位にランクされて格隊に分散されて居ますので、池内家は相当な権力を持った武士団だった様です。
そんな池内家に嫁として入る女性は高貴な家柄で有り力も発言力も持ち合わせた「池内の伯母達」であったことが証明されます。
山内一豊が浦戸に入ってからは、多くの一領具足達が相撲大会と偽ってだまし討ちにしたことが伝わって居ます。其処では多くの郷士が討ち取られ首が大阪に送られたと言います。その中に香宗我部氏の家臣団達が含まれて居たことは間違い無いと察します。
朝鮮出兵の時香宗我部親康は亡くなっていますので、世は秀吉・家康時代と成っていますので、旧香宗我部氏は城代家老だった池内肥前頭に総てが罹って居たのだとすれば土佐藩にとって香宗我部氏は危うい存在だった事になります。
特に香宗我部氏を頼ってきた武田勝頼を、安居の山峡、後には大崎の郷に匿っていた事実は、土佐藩は非常に恐れていたと考えて間違い無いでしょう。
武田家は歴史が古く全国に末裔が居ますので旗揚げすると成ると全国に波及する可能性を持った日本を代表する部族です。
承知の通り土佐藩山内家は土佐に入ってからは、土佐を支配していることを主張する為に一領具足達多くの首を大阪に送っていますので、土佐は古くから武田の地脈を増勢していたので、武田勝頼生存説には恐れていたと思います。

・野中家と「池きさ」との関係
 
野中家との関係は以前から不確実な情報ではありましたが、此と言った証拠が無く大きな声では言えませんがガイドブックの中で触れている程度でした。
 最近の情報でえた「皆山集」の中で野中兼山に妾を世話した池内伝内の妻「池内の伯母」(公文善左衛門の妹)の事が載っていました。
 公文善左衛門は野中家に出入りしていたと書かれて居ますので、やはり香宗我部氏家臣の一人で、信玄堤の土木技術を持った一族だったのでしょう。
此の「池内の伯母と谷神右衛門の妹の池内の伯母」がキーポイントになります。二人の池内家の伯母達は武田勝頼と曾孫の娘達「寺村兼と池きさ」については情報を共有していて噂の種だったと思います。
妾「慥かな婦人」は武田家の女だとは書かれていませんが、谷家に行った兼姫の旦那様の妹が池内の伯母(谷家)だと言う事が解りました。
谷家の系図に出会ってのことですが、兼姫の旦那の妹が池内家に嫁いでいたからで、後の池内の伯母として歴史書に出てきたものであります。
後で池内家の事は解説しますが、香宗我部氏の中では池内肥前頭直武が筆頭家老を行う人物で、長宗我部氏の中でも発言力のある人物達です。
そんな中の、池内の伯母達は発言力が高かったと思われ、武田家の系図にある「香宗を頼る」と言う文言からしても、武田家の落人達の情報は共有されていたと考えられます。
内川氏の資料は、馬場氏や内川氏が、信州の武田家臣団から土佐に来た事も解説されています。
 関ヶ原までは、武田家の土佐生存説は家中でも共有された情報であります。
池きさの素性については、武田信玄→武田勝頼→武田正晴(武田小三郎・松村六太夫・寺村六太夫)→寺村(武田)勝正(寺村勝之助・寺村助十郞)→女子兼姫・寺村晴勝(寺村小三郎・寺村義助)・池きさ(父勝正亡き後、妻は池に預けられると系図から)と成っております。
 手前は、武田家の血を引き継いだ流れでありますが、池きさは勝頼からは曾孫になります。
 父勝正は二九才で亡くなり、母親(妻)は池左近進(親元)に預け「系図から」(この時幼児きさを連れて池に帰ったと考えられます。
 姉の兼姫は父勝正の従兄になる信房の妻(枝川村寺村氏)に養育に出され、二年後潮江谷氏に奉公(妾)として行きます。弟の晴勝(義助)は一一才(1622)年で寺村輿一郎義男方に養育に出されて行きますが、系図には以後は不明となっています。
・皆山集の一節宝暦13年(1763)末正月 池内真友記言い伝えを書く。より抜粋して掲載
野中伝右衛門殿のご息女於エン様(1661~1726)は、安履亭と号す。朝倉にお住まいす。お上より御扶持を下し給い、博学大智のお方なり。池内一家へ故あるよしにて度々御入りになられる訳を左に記す。
1 曾祖父の池内伝内の妻は公文善左衛門の妹。此の公文氏は、昔徳善村(西祖谷山村善徳?)300石あまりを領すとあり、御入国以後浪人となり、徳善村に住む。野中の御家へ出入りをする。(土木技術を持った使用人では)
「ある時、(公文)善左衛門殿おおせられ候は、「慥かなる婦人」の奉公人を肝いり候様仰せられる。善左衛門が申しあぐるはわたしの妹があり。池内伝兵衛・池内小左衛門の伯母です。 是を差しあぐると申すべきかなと申し候えば、その方の妹の儀は、たしかなる事およぶべきか所望とおおせられ、直ちに奉公に入る。
2 お気にも入り久々勤めおり申すうち、彼のご一家(野中家)重きお咎(とがめ)にて、数々のご子息達、宿毛へやられ、伯母といたわり付き添い、彼の地へ参る。
その後お配所の伯母を・・・・公文家へ参る人もこれ無きゆえかな。池内小左衛門真森が宿毛へまかりこし・・・・廟所は興雲寺西にある。安履亭(婉・エン)は伯母を親とも思われめされ、ご深い志ゆえ、お入りの度ごとに廟へまいりなされ、父市右衛門の時代にお入りの節、狩野朴筆を養い、竹に日の図、掛け物と錦での徳利を下されるなり。今の家にある。・・・・右之通訳ゆえ、一家出入りをいたし、お懇ろにおおされ候よし、父市郎右衛門これを噺つくし書き記す。
*「伯母を親とも思われめされ」とは、兄弟の母「公文かち」の公文家の伯母を指しています。
 「一家出入りをいたし」とは、池内家の事だと思います。
 池内家の伯母達は、婉達と深い繋がりが有ったことを指しています。
・野中兼山の経歴と関係者
1631年 「兼山」奉行職17才
1636年 野中家を継ぐ22才
1637年 島原の乱~1638年(義男・晴郷兄弟で出張で参戦)
   ?   長女「順」
1647年 ○次女「米」生まれ高木四郎左衛門室
1648年 「一明」生まれる(母きさ25才)
1649年 ○長男「野中桑継(清七)」~1679年
1651年 ○二男「野中明継(欽六)」(母かち)~1683年狂死
   ?   三男「野中顧一郎」
   ?   四男「野中畏三郎」
1658年 ○三女「寛」~1729年
1658年 ○五男「野中継業(希四郎)」(母きさ33才)~1698年
1661年 ○「婉」生まれる (母きさ38才)~1726年
1662年 ○五女「将」生まれる (母つま)~1721年
1663年 兼山(奉行解任12月15日死亡)
1663年 ○六男「野中行継貞四郎(母きさ40才)~1703年自死
1663年 「谷秦山」生まれる
1703年 野中家幽閉の家族許される(幽閉40年間)
1703年 婉が高知市に帰る
1706年 五代藩主豊房死亡
1706年 六代藩主豊隆着任
1707年 谷秦山投獄(罪状不明)~1718年 谷秦山牢獄で死亡
*本妻と他の子供達は許されている理由は。
   実質離縁と三男四男は誰の子?、山内家の身内だったから。
*妾と子供達だけが幽閉された理由とは。
妾たちが武田勝頼の血を引く女だったのと、子供達も同じ血を引く事か。
谷秦山は系図から確実に武田勝頼の血を引き継いで居ます。
*太字は池きさの子供。
   池きさだけを対象にすれば内容がばれるので同罪としたのか。
*○は、直接幽閉を言い渡された八名の子供達

・土佐藩の陰謀説・武田勝頼一族の抹殺事件

一六二四年、谷家に奉公に行った兼姫も子供を残して二年足らずで谷家を出されています。
武田家のご息女であるため、証拠隠滅を諮って中山氏に奉公として預けられた事案では無いでしょうか。その問題は二年足らず解決したのかも知れませんが、此で一件落着して隠し切れたのかも知れませんが、 時が経ち、池内の伯母(公文)は藩や幕府の事は知らず野中家に「慥かな婦人」を紹介したのでは無いでしょうか、此の婦人は勝頼の曾孫となります。
伯母の出しゃばり心が武田家の事案を、又再発させた事件かと思います。
 この当時野中兼山の弾劾に参加した藩士(後に家老職)孕石元政は養子先の曾祖父は甲斐の武田勝頼の部下だったと言われています。
火の粉が我が身に降りかかる恐れを感じた孕石元政と生駒木工は理由などどうでも良かったのではないでしょうか、兼山個人の藩政運営を追求し野中家の改易に荷担したと考えられます。
後に二人は家老職となっていますが、生駒木工は兼山の死後三月後に死んでいますが、証拠隠滅を諮ったのでは無いかと思っています。
また孕石元政が一七〇二年に亡くなっていて翌年に婉達の赦免が出ています。
 堤防の建設。物部川に築いた山田堰による灌漑などで新田を開発したり、過酷な年貢の取り立て、郷士の役職への取り立てなどで上士の反発を買ったとか理由を作りますが、本当の理由は藩の改易に繫がる事件だけに公には出来なかったと思います。
兼山の施政に不満を持つ孕石元政と生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出したとのことですが。
理由は「郷士を厚遇して藩士の困窮を顧みず、重い課役や専売制で農民や町人を苦しめた旨が挙げられた」と有ります。
三代藩主忠豊は叔父である伊予松山藩主松平定行と相談のうえ兼山を罷免したと表向きは成っています。
藩政の改革を行い藩の財政を潤した人物です。こんな大きな事業をなしえた兼山が犯した罪を兼山一人に押しつけるのもおかしい、藩の責任のはずです。
ましてや役人が百姓達をこき使うなんて言うのは何処にでも在る話しで、野中家だけの改易になる理由にはならないと思います。
こじつけで有ったと思いますが、武田家の事、特に勝頼の土佐での存在は江戸幕府から見れば謀反の兆しが有りとみなされ、土佐藩自体の改易に繫がる大事件ですので明文化は出来なかったのでは無いでしょうか。
谷秦山の案件も同じ理由が関係していると思っていますので今一度問いかけてみたいと思います。
谷秦山「谷丹三郎重遠」の墓と書かれた墓所の看板から。
「無罪の罪で、天をうらまず」と、まず無罪ではないと思います。
 本人達・家族・土佐藩の奉行達は、谷秦山が武田勝頼の血を引いた家系であることは承知していたとすれば納得がいきます。
政敵である武田家の子息達を幕府は許すとは思えません、藩内に、しかも藩士の其れも身分の高い人達の中に潜んでいたのは断罪の理由でしょう。
香美史談会の資料から、罪状不明の冤罪ですが「真意は知る者ぞ知る。何時の日にか晴日たらん」と罪に服しました。
「決して天も人も恨まず己の運命に嘆くことなく」―これらの文面から一部の人間だけが秘密扱いで谷家の断罪を取り締まった事を指していると考えれば納得する理由で有り増す。 野中兼山の罪も同じ理由だと思っています。
 子供達が宿毛に幽閉されて二十三年後の貞享三年(1686)夏、谷秦山が宿毛を訪れています。この特役人に会わせていただけ無かったと言われていますが、この時点から事件は広がったと思っています。
お役人は土佐藩邸にすぐさま報告したはずですから役人の調査が始まります。 聞き取り調査を始めればまだまだ生き証人が居たはずです、秦山と婉さんとが同じ武田の血を引き継いだ親戚同士と言う事は直ぐ分かったと思います。
 秦山の祖父達と、佐川の中山氏や枝川の寺村氏からも事情徴収されたと思えば、彼らが後年改易されて居た事からも明らかでしょう。
 谷秦山の子供達が訳の分からない死に方をしています。時期は谷秦山が宿毛の野中家の遺児達を訪れた時期と重なって見えます。
 六人の子供の内四人が若くして他界しています。折しも野中家の宿毛での男子達が亡くなるのと同時期です。
系図から見ると「長男は夭(若く没)・二男久蔵(六才没)・三男八蔵(四才没)・四男神内古道(三才・十四才没)」と、末の神介自直だけが生き延びています。
 藩の手が伸びたとは、言いがたいですが、疑ってみたくなります。
 「真意は知る者ぞ知る」は、真に知る人だけで、武田家の系図に残した「家名を隠し枝川村百姓源右衛門と申す者権親として彼の娘と称して寛永元年甲子潮江谷氏に奉公」から導き出した回答です。
「何時の日にか晴日たらん」とは、この本を指していて武田家系図に行き当たった私にしか解明できない事件であったと思います。
・いま、真意を世に訴えようと筆を執りました。  筆者
谷秦山の書き残した文からも「己の血の流れには逆らえなかった」と書かれた文書からは、秦山の心情が読み取れます。
野中兼山の罪状も、以上の理由からして野中家の血を断つことではなく、武田勝頼公、強いては甲斐武田家の当主の血を断つことであると思います。
野中家・谷家両家を絡めた勝頼一族の生き残りをかけた策略は、土佐藩の事前の工作で改易を逃れた事件でありました。



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武田勝頼 明智光秀 土佐生存説 講演会&パネル展

「武田勝頼 明智光秀」土佐生存説 講演会 & パネル展

主催:武田勝頼土佐の会
後援:仁淀川町  高知新聞  RKC高知放送
協賛:高知県観光ガイド連絡協議会


研修目的 当会では、歴史ミステリーを街おこしにしたガイドを行っている。理解しがたい内容の為「武田勝頼・明智光秀土佐生存説」を謳っている著名人で日本ペンクラブ作家片岡昌一氏著書「最後の武田」勝頼生存説の内容の話し。
歴史研究家橋詰和人氏著書「武田勝頼明智光秀生存説」現地からの報告書を出している方達に講演を頂き知識を吸収し観光振興と歴史ガイドに活かすことを目的とする。

場所:高知県吾川郡仁淀川町大崎200
会場:仁淀川町役場本庁庁舎 一階多目的ホール同ギャラリー

出席予定人数  ~48人 (入場制限)

講演会 令和4年7月31日(日曜日)午後1時30から4時30分
場 所:仁淀川町役場本庁庁舎多目的ホール
住 所:高知県吾川郡仁淀川町大崎200

1, 基調講演、「武田勝頼土佐に生く」著者 岡林照壽 司会
      土佐生存説について資料に基づき事案等の紹介

2, 最後の武田、及び秦氏の群像 講師 片岡昌一氏
      著書最後の武田について、勝頼生存説の話し
      片岡氏と明智光秀&長宗我部氏の話
      及び武田家に関する秦氏との渡来人伝説の話し

3, 武田勝頼明智光秀生存説  講師 橋詰和人氏
     「武田勝頼 明智光秀生存説」現地からの報告書を元に土佐生存説の話し
     本能寺&長宗我部氏との関係についての話

4, 出演者によるトークショウ



パネル展示会 同会場にて催し 7月31日(日)~8月6日(土)

パネル展示(武田勝頼物語パネルその他資料展示
戦国武将陶人形展同時展示 陶芸家 追平陶吉 作 11体
森の妖精達 ー乙女の夢の作品集ー 講師岡林照壽氏
<チッシュペーパーから生まれた造形作品>作者 チッシュ ヒヨコ

甲府10-1   資料館08-1   資料館11-1   資料館07 

森の妖精11


ちり紙人魚 工房
森の妖精12     森の妖精02     森の妖精04





第2回歴史講演会
令和5年3月11日 仁淀川町交流せんたー
野中兼山と谷秦山の真実の罪
 土佐藩の陰謀説「武田勝頼一族の抹殺事件」 
   歴史に絡む女性達
:真田忍者演武 真田忍者研究会会長 伊与久松風氏


パネルデイスカッション「武田勝頼土佐生存説と町おこし」について
パネラー
坂本世津氏
片岡昌一氏
伊与久松風氏
中津佑子氏
小俣公司氏

担当者名・連絡先
武田勝頼土佐の会 会長  岡林照壽
携帯080-6392-5327
固定0889-20-2003
メール kindsea@shirt.ocn.ne.jp

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