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歴史小説「武田勝頼土佐に生く」刊行

歴史小説「武田勝頼土佐に生く」刊行! P278
           著者 岡林 照壽 (武田勝頼土佐の会 会長)
令和元年9月刊行発売・予約受付中・・
武田勝頼の土佐生存説の真実、土佐武田家抹殺の土佐藩陰謀説を曝く実話小説

・小説 「武田勝頼土佐に生く」 定価:税込み1,000円 送料 200円
・資料「武田勝頼物語ガイドブック」 定価:税込み500円 送料 200円
*2冊の場合でも、送料は一括200円とします。
(小説申込み者、先着100名様には武田勝頼物語ガイドブックを付録で付けます)

小説表紙191
販売・予約取扱者 :武田勝頼土佐の会 
住所:781-1501高知県吾川郡仁淀川町大崎340番地1
申込み:FAX 0889-20-2003  
メール: kindsea@shirt.ocn.ne.jp
送金:郵便振替をご利用下さい。
名義:武田勝頼土佐の会 口座番号:1640-0-132187
  

*挨拶
 著者の岡林照壽は、もと大崎八幡宮の24代目の神官で、御神体である武田家始祖と武田勝頼夫婦の墓所と史蹟、地域に伝わる伝承と、出会った武田家系図等から40数年掛けて調査研究してきた武田勝頼一族について、小説風に報告書として纏めたもので有ります。
 中身は「勝頼の生涯」前回のブログを参照して下さい。小説なので想像の部分がただ有りますが、出来るだけ系図や真実に近い内容で綴っていますが、事象を優先していますので小説としては面白くないかも知れません。
 取り上げたのは、勝頼から曾孫の4代に及ぶ勝頼達の葛藤と生き様を中心に描いています。特に訴えたかった事は土佐藩による土佐武田家の抹殺という事件を取り上げています。また玄蕃祭りの相撲や玄蕃踊りなども取り上げています。勝頼生存の「抹殺陰謀説を曝く事件」は、今後の調査が待たれます。
 小説は当会で発行していますが、勝頼伝説の宣伝に一役買って戴ければ幸いであります。
費用の面から220冊限定でありますので御了承下さい。        
武田勝頼土佐の会 会長  岡林照壽
   
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勝頼の生涯

勝頼の生涯
小説 「武田玄蕃 土佐に生く」から抜粋  近々発行予定。
定価:1000円税込み
勝頼の生涯(抜粋)


土佐に来た勝頼公達は、どんな最後を迎えたのでしょうか。
天正十年から関ヶ原の戦いまで、土佐では長宗我部の四国統一に向けての戦があり、西に東に遠征に加勢して、戦国末期の戦いの渦中に居たと思われます。

天正十三年の金子の戦い、天正十四年の九州豊後戸次川の戦い、天正一八年小田原征伐、文禄慶長の朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣夏の陣と、小田原征伐以外は何れも負け戦で一族の勢力が削がれていった時代でもありました。
戦いを通して天下が統一されてきた昨今、再起は不可能と考えたのでは無いでしょうか。最後の賭が関ヶ原だった思います。土佐武田は信勝の時代になっていた時、津野氏の養子になった長宗我部元親の参男親忠のお側用人をして、津野氏の家臣となり、葉山郷貝の川(当時は甲斐ノ川)に入部しています。
信勝は、津野親忠を補佐して徳川方に加勢を考えていたようでありますが、津野親忠は佐川の久武親直の陰謀で、関ヶ原の戦いの後に、謀反の疑いで殺されてしまいました。
後ろ盾をしていた信勝も疑われたのでは無いでしょうか、此処は盛親に忠誠を誓って、大坂冬の陣・夏の陣にも参戦したのだと思います。

後に貝の川の大崎神社には、大﨑五郎衛門(武田信勝の別称)として、貝の川に最初にきた武士として祀られていました。また神社の祭神は中央に大﨑玄蕃(武田勝頼公)が祀られていますので、信勝が貝の川に来たことは確かです。
大坂夏の陣の六年前、慶長一四年(一六〇九)八月二五日に勝頼は六四才で亡くなりました。墓所は川井土居屋敷に葬られていますので、土居屋敷には親族達、武田一族が居住していたことは間違いないと思います。
長宗我部氏の中に生き残りを模索していたのですが、長宗我部元親は四男の盛親を跡取りとしたことで、再起の希望が失われました。

時代は信勝から信房の時代へと移りますが、土佐は山内氏の時代、長宗我部氏の一門は下級武士として農民扱いでありましたので、信勝・信房達も生活は苦しかったと思います。曾孫の時代には佐川の中山氏を頼って出て行きます。
駿河の武田氏の方の情報からでは、小山城のある吉田町に信房達は移住していて、亡くなってから末っ子の山崎孫六郎が、土佐まで遺骨を持って帰ったといわれ、信勝と同じ所の墓所に葬ったので有ります。

時代は勝頼の曾孫義男と晴郷の時代に入り、二人揃って島原の乱に出張で行っていますので、この時代は土佐藩の一部に溶け込んで居たと思われますので、川井土居屋敷に住んでいたことは、間違いないと思います。
そんな時代になっても、戦地で勝頼の曾孫と名乗れなかったとは、勝頼が生きて土佐に居た事は、土佐藩としてはタブー化していたのかも知れません。

そんな時期に野中兼山の側室の話がありました。勝頼の曾孫、女子の奉公の話しですが、名は「池きさ」と言って池氏に帰った孫嫁の子供です。
勝頼の曾孫に当たる女子「池きさ」は、父が勝正、母が池氏の娘ですので、夫勝正の死後(早世二九才)池に帰っていました。系図から。
皆山集から、内川氏(香曽我部家老職)と池内氏の世話で野中兼山の妾となり、五人の子供・内男子三名を産んで居ます。
野中兼山は、奉行として干拓事業等で多大な実績を残しましたが、施政に不満を持つ者「孕石元政・生駒木工」などが画策し、家老深尾出羽を通じて三代藩主山内忠豊に弾劾状を提出しています。

寛文三年(一六六三)兼山は失脚しました。野中兼山は隠居の三ヶ月後、その年の暮れに高知市内で亡くなりました。
自殺とも暗殺とも云われてはいないですが、不審な死です。
政敵の孕石元政(はらみいし もとまさ)の祖父、元正は、もと武田勝頼に仕えていた人物で、山内氏の家臣として土佐に入り、養子父正元の子として活躍、兼山失脚のあと家老職に就いています。元政は元禄一四年(一七〇一)に歿す。一方、生駒木工(土佐藩家老)も兼山の政敵で、兼山を失脚させる切っ掛けを作った人物と云われ、兼山死後三ヶ月後に死去しています。
関係する両者と深尾は政争を通じて、土佐藩での争いの渦中に勝頼生存説が利用されたもので、各々は情報が共有されていた可能性が有ります。

直接の理由では無いかもしれませんが、孕石元政は先祖が嘗ての上司だった勝頼を出世の妨げと感じたのかも知れません。深尾・孕石・生駒各氏は家老職として政敵で有る野中兼山を失脚さすことで、話しが出来ていたものと思います。本妻は許されますが、妾とその子供達十数名が宿毛に幽閉されました。

男系が全員亡くなるまで四〇年間という過酷な幽閉生活を強いられています。
武田の血統が山内氏の中に残る事は、其れも筆頭家老という要職ですので、将来武田家の復興も視野にあったと考えれば、土佐の武田勝頼の一統としては秘策であったと思います。
山内藩では、この事は調査済で有ったのでは、と思えて成りません。
本妻は許されて、妾達とその子供だけ、なぜ!推理が当たっていれば「池きさ」と子供達は、武田の血を断絶抹殺する目論みが有ったと考えられます。

元禄一六年(一七〇三)女子の「婉」四二才が四〇年後に高知に帰ったのですが、恋仲でも有り、交流の有った谷秦山が幽閉され「婉」と切り離されます。
野中兼山の罪状文書が、一部破棄削除されている事がテレビで放映されました。その中身は永遠に図りかねますが、土佐藩としては、残すと都合の悪い内容だったのでしょうか。
しかし武田の血を繋ぐ事は許されず、勝頼の土佐藩に取り入る最後の願いも空しく、消し去られてしまいました。
異常とも取れる土佐藩の扱いは、何を物語って居るのでしょうか。
土佐武田は歴史上からも余りにもメジャーな話しで、武田勝頼の名前と、武田家という名前が、災いを招いたのかも見知れません。

この小説の真のねらいは「勝頼と武田家抹殺の陰謀」を暴くことに有ったのかも知れない、と考えるように成りました。
書き始めは単に記録として、面白い物語をと思い、また調査本として残す気持ちでしたが、内容を頭の中で整理しながら小説を書き綴っていく内に、その気持ちが強くなりました。
平成が終わろうとする時代に成りましたが、未だに土佐ではタブーとして思っている、山内藩と関係者の方が沢山居ます。
真実を解き明かすことは、永遠に不可能と思っています。

ただ真実は真実として理解される様に、また誇れる歴史を地域住民が愛する事を望んでいます。
一つには、歴史を解き明かすよりも、歴史ロマンとして伝説を語る体験や、観光資源として整備し、活用する方法はあると思います。
大﨑の町は、武田勝頼公が生きた証を体験する場所として保存し継承してゆく必要があると思います。
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 小説 武田勝頼土佐に生く

 小説 武田勝頼土佐に生く

                     著者 武田勝頼土佐の会 会長・・・・・
                     定価 税込み  1000円 送料実費200円

この夏発刊予定 発行部数限定のため先着100名まで

*申込み受付は、6月1日以降とします(印刷の手配中で変更もあります)
     発行の内容は決まりましたら、このブログでお知らせ致します。

    ・当会で直接買うか、FAX、又はメールで受付、先着順となります。
    ・氏名・住所・電話番号・部数を明記して申し込んで下さい。
    ・発送は7月以降となります。
     FAX:0889-20-2003   メール:kindsea@shirt.ocn.ne.jp
 
小説の内容
天正10年3月勝頼は甲府の大善寺に影武者を残し一路上野の国真田の郷をめざし脱出する。本能寺の変を切っ掛けに、兼ねてから四国は土佐の香宗我部を頼って逃げる計画をしていて、6月のはじめ利根川を小舟で出立する。
利根川から江戸川をへて、江戸湾は武田の海賊船で土佐を目指す。
途中は本船とは別れて吉野川を遡上、立川番所をへて楠目大宝寺にはいる。そこから吾川郡安居土居に潜伏、天正11年下大崎に進出、天正13年2月8日大崎村川井の土居に落着する。
この間下大崎には武田家の菩提寺流行山成福寺を、大崎村川井には武田八幡宮を建立、逃亡時武田八幡宮から持ち出した武田家の御本尊・正体12尊木像を安置した。
土佐に来てから、武田の一族たちは政略結婚を通じて勢力を張り長宗我部氏の一員として活躍、同行の神官僧侶達は中村の石見寺、宿毛の延光寺などの住職として活躍。土佐では土佐武田家を復興させる準備を着々と進めていましたが、土佐では関ヶ原の戦い後長宗我部家の改易、山内氏の入城により土佐は情勢が一変、慶長14年8月25日勝頼は64才で亡くなり、土居屋敷に葬られる。
墓所の前には村人達によって鳴王神社が建てられて今日に到っている。
この間、山内氏の中では勝頼達武田氏の血族の生存が邪魔となり。土佐武田家の抹殺が行われた。その煽りで土佐藩の家老野中兼山や谷秦山たちが謂われなき罪で抹殺、武田勝頼達の足跡は土佐では抹殺された。
武田家の土佐陰謀説を暴いた内容となっています。

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玄蕃祭り&秋の陣

玄蕃祭り 秋の陣 武田勝頼没408年
2017年10月15日日曜日

玄蕃祭り
旧暦8月28日が例祭(今年は10月15日例祭)
祭典は12時~大崎八幡宮で行われます
御神輿には勝頼が載って鳴玉神社まで行きます
武田家始祖と思われる御正体には御神像がある
大崎玄蕃は武田勝頼の変名なり
大崎八幡宮に祭神鳴玉神社で祭られている
また三枝夫人は美津岐神社で祭られている

擐甲の礼・甲冑での出演者募集 <参加無料>
 *武田勝頼役と武田信勝役は甲冑を準備します。
  (但し身長165~145cm 体重65~55kg位)
 *その他甲冑自前での出演者を歓迎しています。
  (長宗我部元親・片岡光綱・香宗我部親秦など)
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~プログラム~
風◆12時:戦国広場売店 (鳴玉神社よこの広場
    ・バンド演奏「おちゃらけモンスター」
     地域のバンドグループで今年始めて出演
林◆13時:勝頼公墓前祭
    ・開会式 挨拶等・・
    ・擐甲の礼(武田家の継承式)
     (此処では勝頼から信勝に家督を譲る式)
     <1585年2月8日にタイムスリップ>
火◆14時:鉄砲隊演武・カラオケ大会
    ・土佐長宗我部鉄砲隊演武
    ・カラオケ大会は吾川歌謡クラブが実施
    (申込みは武田勝頼土佐の会まで先着25人)
     <1位~3位には賞金を準備>
山◆17時:バンド・玄蕃おどり・もち投げ
    ・12時~おちゃらけモンスターのバンド演奏
    ・17時~疋田ありさのキーボード演奏
    ・17時40分~カラオケ表彰・玄蕃おどり
    ・18時~もち撒き 終了
    *雨天時は一部体育館で行います。

【お問合せ先】         
武田勝頼土佐の会
高知県吾川郡仁淀川町大崎340-1 
TEL/FAX:0889-20-2003
URL: http://cha-ya.jp/
mail: kindsea@shirt.ocn.ne.jp


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設樂原戦没者慰霊祭2017

設樂原戦没者慰霊祭2017・7/2

平成24年4月29日に植樹祭(設樂原資料館)
市長はじめ教育長、議長、設樂原を守る会会長、設樂原鉄砲隊隊長立ち会いで行われた
植樹祭

平成24年4月の始め韮崎で桜の交歓会が行われた(韮崎市民会館)
    甲府市の信玄公祭りに参加、記念公演会を行った(勝頼は土佐で生きていた)
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あれから5年がすぎた、今年標柱が立った宇宙桜(ひょうたん桜)
歴史資料館には建設当時50本の桜が植えられているそうです。宇宙桜は51本目の桜です。
既に他の桜と同じ高さまで成長しています。
*新東名新城インターから10分の所ですお立ち寄り下さい。
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